2026年前半
2026 1/21 文章を書くと自分の知らない自分に出会える
自分が以前に書いた文章を読み返してみると、本当に自分が書いたのか怪しくなることがある。何しろ書いた記憶がない。それに普段自分が頭の中で考えているときの自分とも少し違う自分がそこにいるのである。
自分で考えごとをするときの自分と、文章になったときの自分は少し違う。 頭の中で考えるときは話し言葉がメインだが、文章になると論理が強めでカチッとした感じになる。自分というものも媒体によって多面的なのかもしれない。
自分が書いた文章を読むと、別の自分と対話しているような感じがする。 大人になると、なかなかまとまった文章を書く機会というのは少なくなりがちなので、日記のように自分で別の自分と対話できる機会を持っておくと、それ自体がいい自己分析になりそうである。自分でも意外と自分のことをわかっていなかったりするので、自己分析などは何度やってもいい。大事な決定をする局面で、自分を深く知っておけば自分にとって適切な判断を下せるというものである。
2026 1/5 閉塞の時代に飛躍を願ってもいい
毎年のように新しいサービスや製品がリリースされて、人々の思想もアップデートされて行っているはずなのに、何となく閉塞感を感じたりするのはなぜだろう、とよく思う。それに、SNSやそのほかメディア、最近の音楽や何らかの芸術作品などに触れると、上手く言語化できない暗い部分を感じることがあって、閉塞を感じているのは自分だけではなく他の人もそうなのではないかと思う(観測範囲が狭いのであくまで個人の感想)。
閉塞を感じる理由をいくつか考えたり、本で読んだりしてみたが、すべて書くと長くなるので1つだけ挙げてみる。
近年の閉塞感の理由の1つとして、社会のいろんな問題が各人の自己責任として、個人の問題に置き換えられてしまっていることがあるのではないかと思う。 数十年前と比べて現代ではキャリアや生き方について個人でいろいろと選択できる自由度が増えた分、何でも自己責任であるとみなされるようになった節がある。たとえば、どこに住んでどんな仕事に就いてどんな服を着て何を食べるのか、などなど、すべて自分で選ぶ。さらに趣味は以前に比べると多様化し、インターネットとSNSの普及によって、これまでつながることがなかった人々の交流が盛んになり、ニッチなコミュニティが乱立する時代である。その中でどんな趣味をもち、どんなコミュニティに属するのかも自分で自由に選べる。
自由は一見するといいことだが、何でも選ばないといけないのは疲れる。 選択するには考えないといけないからだ。そして選んだということの責任は自分にある。ほかの誰でもない自分の決定によって、今の自分の状態があるからである。 ということは、今の自分が不利益を被っているならその責任は自分にあるということになる。これは合理的かもしれないが、あまりに救いがない。何でもかんでも自分のせいにすると、しんどさを感じるのは自明ではないだろうか。
たとえば、依然と比べて集中力が落ちているのは自己責任だろうか。スマホが普及した現代では、日常的にインターネットに触れていて、常に大量の情報が頭に流れ込んでくる。 SNSやアプリの広告に注意をそらされたり、インスタントな情報にさらされることで集中力は低下するのではないだろうか。もしそうだとして、スマホを手放すことも難しい。最近ではスマホアプリやQRコードを読み取ることが前提のサービスも多い。スマホで注文することが前提の飲食店もあったりする。
そういうわけで、これは社会的な問題ではなかろうか。社会はスマホの普及とデジタル化を推し進めようとしているが、それによって個人の集中力は奪われているのかもしれない。 だから、集中力がないのは自分のせいではなく、社会のせいだというのもあながちまったくの見当外れではないのかもしれない(なんだか言い訳のようにも聞こえるが)。そんな感じで、たまには言い訳をつけて休んだりしてみるものいい。
適度に休みながら勉強(または作業)するのが結局は効率がいいのだ。 休憩中はできるだけスマホを見ずに本を読んだり景色を眺めたりすれば集中力も戻ってくるだろう。社会はきっと少しずつ良くなっているのだろうし、自分も少しずつ勉強は進んでいるのだろう。そう思うことにすると、新年に飛躍を願うのも悪くない気がする。