2025年後半
2025/11/2 働くと本が読めなくなるのか?
「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という本がよく売れているようだ。 読書好きだったけど働きだしてから読めなくなったという事象に共感する人が多いのだろう。 そこで、表題のような疑問を考えてみた。 結論から言って、働くと本が読めなくなるかどうかは「人による」というほかない。
本を読めなくなりそうな状況としては時間的な余裕がなくなることがあげられる。 読書は時間がかかる。 小説なら短いものであれば1、2時間で読めるが、新書や少し骨太な本であればその限りではないだろう。
その時間を作ることができなければ、当たり前だが本を読むことができなくなる。
また別の理由を考えてみると、その人の体力が残っていないために本が読めなくなるということもありそうだ。 何かというと、時間を確保できたとしても内容を理解するだけの体力がないということである。
読もうとしている本の内容が易しめならそういうことは起こりにくいが、 しっかりした新書だったり、難解な本の場合はよく起こる。
働くとどうしても時間をとられるし、労働は疲れるものだ。 なかにはヘトヘトニなるまで作業をすることが労働だと思っている人もいるくらいである。
その人の労働スタイルが時間と体力をフル投入するようなものであった場合、本を読めなくなっても不思議ではない。 また、個人の労働スタイルというよりは職種によってはそもそも上記のようなハードワークを強いられることもある。 その場合は必然的に読書が難しくなるだろう。
結局のところ、この問題は人生におけるものごとの優先順位をどのように決めているのかということに依存しているのではなかろうか。 読書を人生の至上命題とするような人は本を読むための時間を何としてもねん出するだろうし、 働きだしてから優先順位が変わって、読書よりも大切なものができた人は自然と本を読まなくなるだろう。
ただ、個人的には読書の時間を大切にしたいと思う派である。 読書は自分を新しい世界に連れて行ってくれる可能性を持っている。 しかも1回買えば何度でも楽しめる。コスパもいいのだ。 人生の最後まで読書を趣味にしていたいものだ。
2025/8/17 楽しむ心とモチベーション
長く1つのことを続けるとうまくモチベーションを維持することが難しくなる。 何か物事に取り組むためのエネルギーや情熱といったものが枯渇してしまったようになるときがある。 そんな時はどうすればいいのだろうか。 最近そんなことを考えていた。 ここのところ、どうにも作業のモチベーションが上がらないことがあったからだ。
そもそも情熱やモチベーションはどこからやってくるのだろうか? それは人によるだろうし、取り組むタスクの内容にもよるだろうと思う。 一般論はわからないので、まずはN=1の自分の場合を考えてみる。 個人的には、これまでの経験から言ってモチベーションが高くなるのは、 新しいことを知ることができるときや、それによって自分の視野が広がったと感じるとき、 または自分の能力が向上していることが感じられるときだろうと思う。 それらに共通する感情は楽しさだ。 物事を楽しむ心だと思う。
何か自分の行ったアクションに対して楽しいと感じることができれば、またそれをやりたくなる。 もっと深く理解したくなったり、工夫をしようという気になったりする。 楽しいという感情が新しい情熱やモチベーションを生み出す。 もちろん、この考え方には賛否両論あるだろうが、個人的には楽しいかどうかが重要な観点だと思う。
あるタスクについてモチベーションが低い状態というのは、 自分がそのタスクを楽しめていない常田であるということを意味する。 逆に言えば、モチベーションを上げたければ、そのタスクを楽しめればいいはずだ。 まぁ、そうはいっても楽しい作業ばかりやってくることはない。 とくに仕事であれば、自分の意思にかかわらず、事務作業や雑務もこなさなければならない。 ではどうすればいいか。
話は単純で、そのタスクを楽しめるように努力することだ。 どんなものごとであっても自分の考え方によってその見え方は異なってくる。 たとえば、背景を知らなければ単純な事務作業であっても、 実はそれは誰かの役に立つ重要な作業かもしれない。 自分の思考をハックして何事も楽しむことができる癖を身に着ければ モチベーションのコントロールができるようになるに違いない。
2025/7/27 演繹と帰納
理論を構築するときの方法として、演繹法と帰納法がある。 演繹法は、一般的な原理や法則から特定の結論を導き出す方法であり、 帰納法は、特定の事例や観察から一般的な原理や法則を導き出す方法である。 数学や理論物理学では、演繹法が主に理論の構築に用いられる。 とくに理論物理学ではできるだけ少ない仮定から出発して、 できるだけ多くの予測ができる理論を構築できることが望まれる(さらにその予測結果が実験結果と矛盾しないことが重要である)。
一方で、帰納法は生物学や医学、社会学などの実験や観察からのデータ収集がメインになる分野で用いられることが多い。 各分野におけるデータから一般論を導くためのツールとして、統計学が強力である。 よって、統計学は本質的に帰納的な考え方にもとづいている。 しかし統計学を基礎づける確率論は数学の理論なので、演繹的である。 この違いが統計学を学ぶときに初学者を混乱させる。
数学や物理のロジックになれた人が統計学の本を読むと、 定理と証明のスタイルではなく、事例から説明するスタイルに出会うことになるからである。 多数の事例が並ぶテキストに翻弄され、何が重要なことなのかがわからなくなる。 事実から一般論へのカギを見つける必要がある。
本来はどちらの視点も重要なので、この機会に勉強してみようと思う。