日常あれこれ

物理に限らず,いろんなことを綴るページです。 個人の妄想、妄言が含まれるかもしれませんが、あしからず。 年ごとにまとめてみました。

2023年後半

2023/12/31 年末の感覚

年々、時間の進みが早くなっているように感じるので年末もすぐにやってきたような気がする。 今年はなぜか、特に年末感がないような感じがしていた。 というか年末感って何なのだろうか?

何があれば年末の感覚になるのだろうか? 個人の気持ちの持ち様な気もするが、外的な要因があるだろうか。 例えばカレンダーを見て日付が12月になっていたら年末を感じるかもしれない。

自分の場合だと、カレンダーを見ると年末だという意識はするし、謎の焦りがあったりするが、特別に年末感を感じるわけではないので少し違う。 年末を意識するだけで年末を体感しているわけではない。

では、忘年会などで飲み会が増えてくることで年末を感じるだろうか。 確かに忘年会の案内が来れば、もうそんな季節か、と思うことはある。 個人的には飲み会はあまり得意ではないので、できれば参加したくない。 参加することの苦痛が強いので年末感を感じる余裕ない気がする。

年末ということで豪華なものを食べたり、紅白歌合戦の情報が流れてきたりすると年末を感じるだろうか。 確かにこれは少しある気がする。 ただ、こういうのは本当に年の瀬になった時というか、年末すぎてすぐに過ぎ去ってしまうので年末感を味わう余裕がない。

それならば、街へ出てみて、あわただしい様子で行きかう人々を見たり、 スーパーやデパートなどでの年末セールや正月の準備などを見ていると年末を感じるだろうか。 個人的にはこれが一番年末感を感じる気がした。 買い物にはよく行くのだが、年末が近づいてくるにしたがって普段は置いてないような高めの商品や、年の瀬に食べる年越しそばが並ぶようになっていく。 せわしない中でのゆっくりとした変化を感じることができるのは、街の様子を見た時だと思いいたった。 今度から年末感が欲しくなったときは街やスーパーに行ってみることにしよう。


2023/12/29 何事もシンプルがいい

サイトのデザインや構成などを再検討していたら、シンプルなのが一番なのではないかと思えてきた。 あまりに多機能にしたり、何でもかんでもアイデアを詰め込むとごちゃごちゃして見づらくなったりする。 特に備忘録のところなんかは数式を使って細かい議論することも多いので、余計な思考で邪魔はしたくない。 教科書を読んでいるような感覚を残しつつ、Web上でサクッと読めるような記事を増やしていきたいのだ。

シンプルを極めることで高級感も出るので一石二鳥だ。 このことは最近買ったキーボードでも感じたことだ。 見た目をシンプルにすることで本来注目すべきことに集中しやすくなる。

そうやって考えていくと、何もデザインだけの問題でなくて、日常生活で使う身の回りのものもシンプルなやつを選んでいくほうがいいかもしれない。 毎日考えることはたくさんあるので、頭に入ってくる情報量を減らして少しでも脳の負担を軽くし、疲れにくくする工夫も出来そうだ。


2023/12/22 キーボードを新しくして分かったこと(HHKB)

 今まで使っていたキーボードが時々スリープから復帰しないことがあり、うっすらと他にいいモノがないか探していた。 割と買ってから日が浅いので、多分まだ全然使えるのだが、もう少しコンパクトなやつでもいいなぁ、と思っていた。 そこでHHKBのキーボードを見つけてしまった。 コンパクトでシンプルそうな見た目だが高級感もあり、長く使えるということで、よさそうに思い購入した。 購入したのはHHKB Professional HybridのType-Sという静音モデルだ。 このHHKBというキーボードはこだわりのある人にとっては結構有名なもので、少しお高い代わりに確かな品質を持っていて、多くのライターやプログラマーに愛用され続けている。 少し調べるとわかるが、もっとも特徴的なのはキー配列で、両手をホームポジションから出来るだけ離さなくてよいようにコンパクトなつくりになっている。 普通のキーボードと比べてCtrlキーの位置が違ったりするので慣れが必要だが、いったん慣れてしまえばかなり効率的なタイピングができそうだ。 これによって効率的なタイピングができるので、よくキーボードをたたく人に向いている。 そして、高いだけあって一つ一つのキーのうち心地がかなりいい。 私はキーボードにそんなに詳しいわけでもないので説明が難しいのだが、非常に滑らかにタイピングできる感覚がある。 それに、手を動かす距離が少なくて済むので、手首なども疲れにくい気がする。 今まで使っていたのはrazerのゲーミングキーボードだったので、机の上に置いていると光ったりしてギラギラ感があったが、こちらは黒一色なので、大人な感じがあるのも、また違った味があっていいと思う。 買う前は「キーボードにそんなにお金をかけるなんて、、、」と思っていたが、やっぱりいいものはいい、という当たり前のことが分かった。 とはいえ、もう当分はキーボードを買い替えなくてよさそうである。 一生使うと思えば意外にコスパもいいかもしれない。


2023/12/19 個人主義の流行

 時代が進むにつれて個人を尊重する考え方が強まってきたような気がする。 例えば、飲食店では個室や一人用の席が増えてきたし、1人でも楽しめる趣味や旅行プランなどが比較的多く取り上げられているような印象がある。 これは特に都会のほうで顕著な気がする。 また、個人の多様性を認めようという流れが大きくなっているのも関係があるかもしれない。 それにSNSやネットが発達したことで個人が情報発信する機会がグンと増えたことも影響が大きそうだ。 自分としては歴史や世の中のことに全く無知なので、これがいいのか悪いのかは判断できない。 個人的には気心の知れた人以外では全体で動くよりも個で行動することが多いので、なんとなく共感できる感じではある。 ところで個人主義と呼んでいるのは、「個人の意義と価値を重視し、個人の権利や自由を尊重する考え方」というものらしい(日本国語大辞典より)。 これは、あくまで個人を尊重するということであって、何でも許されるわけではないと思うので、無秩序というわけでもなさそうだ。 ただ、こういう言葉の定義は数学などと違って、ぼんやりしていてわかりにくい。 なので思想や哲学は厳密さとは違った難しさがあるように思う。 ところで、個人の多様性を認めていこうというのは素晴らしいのだが、それも行き過ぎるとしんどくなることがある。 いくら一人が楽だからと言って、毎日ずっと一人でいるのもつらいものだと思う。 1人が長すぎると精神的にもまいってきそうである。 結局のところ、人は社会性の動物であって一人では社会で生きていくことが難しいのだと感じる。 また、現代の便利な生活というのは誰かの労働の成果であって、もし自分一人だけで生きていこうとすると、衣食住ですら安定して確保することが難しいものである。 どうやら内向的な人間は1人では生きていけないけど人が多いのはしんどい、というジレンマを抱えているようだ。 社交的な人なら、多くの人とうまく付き合っていくことに苦労はしないのかもしれないが、、、。 このまま個人主義が進んでいくと、世の中はどうなってしまうのだろうかと思うことがある。 人と人との結びつきが薄くなって、個人の意思が強くなっていくのだろうか。 そうなってくると、集団としての会社や組織、もっと大きく言うと国というものも境目があいまいになってくるかもしれない。 これが人間の種としての進化なのか退化なのかはよくわからないが、今の流れはまだまだ続いていきそうである。


2023/12/13 書くことの意義を考える

 働きだしてから、このWebサイト制作や趣味の物理以外では、なかなかまとまった文章を書く機会が少なくなっていることに気が付いた。 もちろん仕事では資料をまとめたりする機会も多いので、なくはないが、プログラムのコードやドキュメント整理などでは技術的な面が強くなるので普通の文章とは少し違った感じがある。 大学の講義を受けていた時は、定期的にレポートの提出などを求められたので、自分の考えを書いてまとめる機会があった。 また、それ以前の小中高の教育でも作文をする機会は結構あったと思う。 書かされる作文は苦痛でしかないが、自分の考えを文章として残しておくというのはいい習慣かもしれない。 その時の自分がどんな思考でどんなものを良しとし、どんなもの悪しきとしていたのかを後から知ることができる。 未来の自分に生かせる。それに、書くことで思考をまとめることもできる。 物理の勉強なども、ただ漫然と本を読むだけではなかなか頭に入ってこない。 本で議論されている内容を追いながら計算を再現してはじめて気づくことも多い、そうして得られた学びは記憶に残りやすいし、後で自分のためにもなるのである。 職業にもよるが、まとまった文章を書く機会のある大人というのは結構少ないのではないだろうか。 自分の場合はサイト制作で記事を書いたり、技術記事を投稿してみたり、勉強したことをノートにまとめてみたりといった活動を通して文章を書く機会は多いが、そういった活動がなければ日常生活で文章を書くことは少ないだろう。 書くことは先にも述べた通り、思考を整理したり、記録に残したりできるので有益なのだが、どうして世の中には書くことを習慣にしている人は少ないのだろうか。 ふと疑問に思った。 しかし少し考えると、書くことは面倒なことなのでたいていの人はやりたがらないのではないか、という当たり前の結論に達した。 自分の立場で考えてみても、書くことはメンドクサイと思うことが多々ある。 書くまでが億劫なのだ。 書き始めると意外に筆が進んだりすることがあるが、始めるまでがなかなか手が出ない。 自分の思考の生産性を上げるために、なんとか書くことのハードルを下げたい。 とにかく毎日パソコンの前に座って1文でもいいから書く習慣を作ってみるといいかもしれない。 実際、この記事もそうして書いている。 昔に読んだ、「思考の整理学」という本にも同じようなことが書いてあったかもしれない。 改めてレビューを書いてみるのも面白そうだ。 ということで、毎日帰ってきてから書く時間を作ろうと思う。 また、上手く書けないから書きたくないということもあるかもしれない。 これも、とにかく書いて慣れるのが一番いいのではないか。 何事もやってみないと上達はしない。 本を読んでいるだけではなかなか書くことはうまくならない。 サッカーのことを動画や本を通じてどれだけ知っていても、練習しなければ上達しないのと同じである。 最初からうまい文章書こうという気負いは早めに捨てるべきである。 技術や表現力は、とにかく書きながら高めていけばいい。


2023/12/06 博士課程に進学するメリット・デメリット

 前回、前々回にわたって博士課程について紹介をしてきたので、今度は博士課程に進学するメリットとデメリットについて考えてみる。 ただ、何がメリットで何がデメリットになるのかは人によってまちまちなので、一般的なことなことしか言えないかもしれないし、少なくとも個人的な主観が入ったものになるだろう。 まず個人的な結論を書いておくと、あまりメリット・デメリットで進学の判断を決めるのはおすすめしない。 必要なのは自分が研究をやりたいかどうか、ということと、お金と時間の面で現実的に進学可能かどうか、ということだと思う。 いきなり自分で話の腰を折る感じになってしまった。 とはいえ、実際のところどんなメリット・デメリットを感じたのか、経験者としての感想をまとめておけば進学に迷っている人の参考になるかもしれない。 さっそく、メリットのほうから考えてみる。

  1. 研究中心の生活ができる。
  2. 論理的思考力が身につく。
  3. まとまった文章を書く力が鍛えられる。
  4. 学会に入りやすい。
  5. セミナーや研究会でいろんなところに行ける。
  6. メンタルが鍛えられる。
  7. 学位が取れれば褒められる(こともある)。

まず一つ目は研究中心の生活ができるということである。 研究するために博士課程に進学するのだから当たり前といえば当たり前だが、後から考えると研究だけできるというのは貴重な時間だったと思う。 振り返ってみると学部や修士と比べて研究と向き合う時間の長さはかなり多くなっていた。 もしそのままアカデミックで研究者になったとしても、他の事務作業が発生することもあるだろうし、研究一本に集中できるわけではなかったと思う。 実際、指導教員やほかのスタッフの様子を見ていると、講義の準備や研究室運営、大学の事務処理などで日中はほとんど研究の時間が取れていない印象だった。 一方で、社会に出てから研究をするとなれば、仕事に時間を取られるので研究に割ける時間は限られてくる。 仕事も楽ではないはずなので、スキマ時間で研究を続けるには気力と体力が必要である。 自分の興味のある分野で好きなだけ研究できれば、大学院生として本望(?)だろうと思う。
次に論理的思考力が身につくことである。また、まとまった文章を書く力が鍛えられるというのも関連している。 これらは日頃から自分の計算などをノートにまとめたり、ゼミで人に説明したりする活動を通して自然と身につく。 論理的な文章でなければ指導教官からしっかりと指摘されるはずである。 また、最終的に提出する博士論文は数十ページから数百ページになることはよくある。 それだけのまとまった文章を書いたことのある人というのは結構限られてくる。 ブログや書籍などで執筆活動している人はそういるものではないので貴重だと思われる。 他の人に物事を論理的に説明できる納涼句というのはどこに行っても役に立つ能力なので身に着けておいて損はないといえる。
また別の角度として、学会に入りやすいことも挙げられる。 物理学会の場合だと、学会の会員になるには他の学会員二人以上の署名が必要である。 つまり自分以外に二人以上の物理屋が必要になる。 研究室に所属していれば先輩や指導教員などのスタッフがいるはずなので、簡単にクリアできるので便利だと思う。 逆にそういったコネクションがないまま学会に入ろうとすると、改めて誰かにお願いしたりする必要があるので手間がかかる。 学会に入ると年2回の物理学会の研究会に参加できるようになる。 最近では某感染症も落ち着いてきたのでオンサイトで開催されることも多く、普段行ったことのない場所に行って他の学生や研究者と交流を深める機会になる。 学生は研究室にこもってばかりになりがちなので、貴重な時間である。 ただ、個人的には出不精なので研究会でどこかに行くのは億劫であったが、行ってみると意外と楽しめるものである。
また、研究はうまくいかないことも多く、博士課程という一般的な進路とは少し違った道を行っていることもあって、精神的に追い詰められたりすることも多いものであるが、それを乗り越えた時は他では得られない強い達成感があると思う。 同時に、研究をやり遂げたという自己肯定感につながるのでメンタルも強化されるだろう。 最後に、学位が取れれば、その価値を知っている人に褒めてもらえることもある、ということがあげられる。 動機としてはいささか不純な感じもするが、褒められると悪い気はしないものである。 ただし、たいていの人間にとって博士の学位を持つ人というのは得体の知れない存在であって、単なる勉強が好きな人として認定されることがほとんどなので期待は禁物である。 最近は社会での博士人材に対する見方も少しずつ変わってきていて、課題発見や企画立案能力、論理的説明力をアピールできれば十分に就職も可能なのであきらめずに活躍してほしい。
さて、ここまでメリットを考えてきたわけだが、そんなにいいことばかりではないぞ、ということでデメリットも考えてみる。

  1. お金がない。
  2. 大学に同期の友人が少なくなる。
  3. 交友範囲が狭くなりがちになる。
  4. 社会に疎くなりやすい。
  5. メンタル的に追い込まれやすい。

まず思い浮かぶのはお金がない、ということである。 就職した同期と比べるとその差は歴然である。 博士課程は奨学金や補助金などが取れなければ、基本的に無給である。 TAなどのバイトで多少なりともお金はもらえるが、たいていは月に2、3万程度しかもらえない。 仕送りなどもない場合、必然的に自分でバイトなどをしながら研究をやることもあるだろう。 そういう状況で専門書などをそろえる必要もある。 それに対して一般的な会社員であれば月に手取りで15‐20万円程度は給料がもらえる。 生活費を差し引いても自由に使えるお金が10万円はある。 お金のために研究をしているわけではないが、若干の不自由があるのも事実である。 これについては、あまり周りと比べすぎないことが大切かと思う。 就職はいつでもできる。今しかできない研究をしよう。
次に大学に同期の友人が少なくなる、という点もある。 理系の大学でも博士課程に進学する人はかなり少数派である。 体感的には学部から修士で半分になり、修士から博士でさらに4分の1くらいになる感じであった。 後輩は何人かいるが、先輩も少なくなるし、少し上の付き合いでいえばポスドクや研究室の若手スタッフということになる。 同期がほとんどいない、というのは人によってはさみしさも感じるかもしれない。 そうなってくると交友関係の範囲は狭く、閉鎖的になりがちである。 それに拍車をかけるように、普段研究がメインの暮らしをしていることも相まって社会常識などに疎くなりやすい。 いざ就職をするという時になって、自分の社会に対する知識のなさに驚くこともあるだろう(特にお金回りなど)。 自分の場合は会社の仕組みやビジネスについても全く無知であったし、今もそうなので苦労することもある。
また、閉鎖的な空間で研究をしていて、何事もうまくいけばよいが、そうでないときはしんどくなりやすい。 研究しかないというメンタルで研究をやっていると追い込まれてつらくなってしまう。 もともとメンタルが弱いという自覚がある人は、あらかじめ覚悟しておいたほうが良いかもしれない。 研究以外の軸も一つくらい持っておくとメンタル的に楽である。 また、経験的にはあまり先のことまで考えすぎないのがいいように思う。 研究がうまくいかないと卒業ができなくて、卒業ができないと就職ができなくて、、といった風に考えていくと暗くなってしまう。 とりあえず上手くいかなくても目の前の計算に集中してみるのがいい。 先のことは誰にもわからないし、考えてもどうにかなるものではない。 目の前の積分を何とかすることを考えたほうがよっぽど有益である。 そういう場合に物理の計算は相性がいいように思う。 脳みそを総動員しないとどうにもならないほどむつかしいので他のことは考えられなくなるし、結果は計算が上手くいったかどうかで明らかにわかる。 結果が目に見えてわかりやすいというのはいいものである。
以上、メリットとデメリットについてそれぞれ考えてみた。 自分の経験でいえば、物理の研究をやりたかったので博士課程に進学してよかったと考えている。 研究の経験を得ることができたし、論文の書き方や議論の仕方など多くの学びがあった。 上であげたデメリットを帳消しにできるほどに価値があったと思う。 もちろんすべての人が進学すべきとは考えないが、気になる分野やテーマがあって、とことん突き詰めて考えてみたいという人には向いているかもしれない。 そういう人はぜひメリットデメリットではなく、行きたいかどうか、金銭的にいけるのかどうか、といった軸で検討してみることをおすすめする。 結局は自分のやることなので誰かの意見に頼るのではなく、自分で決めるべきだと思う。 そこで得られることも失うことも自分のものである。 進学するかどうかといったことに限らず、人生の大事な選択は自分で決めるべきだと考えている。 自分の興味に従って今後の進路を選ぶとよいだろう。


2023/11/29 博士課程での生活について

 博士課程にどうやってなるのか、ということは一つ前の話で書いた。 今度は博士課程に在籍する学生の生活はどんなものであるのかを紹介していこうと思う。 といっても自分の体験がメインになるので、ここで書く内容がすべての博士課程に当てはまるわけではない点は注意されたし。 例えば筆者が専攻していた理論物理の分野で考えてみる。 まず、博士課程の目的は研究成果を上げて学位を得ることなので、生活の中心は研究になる。一般的には毎日研究室に行って研究することになる。 肝心の研究テーマは、修士から引き継ぎである場合と、博士課程から新たに設定する場合がある。後者のときは指導教員が助言してくれることもある。ここは結構重要で、できれば博士課程の3年以内に結果が出そうなものが望ましい。 好きな研究がやりたいからと言って、あまりに壮大なテーマに挑むといつまでたっても修了できない可能性があるので注意が必要である。 出来そうなものを選ぶというのは、なんとなく後ろ向きなように見えるが、一生をかけるテーマを選ぶのは学位をとってからでも十分遅くないと思う。 もし研究者になりたいなら、ひとまずは博士の学位をとることを目標にするとよいだろう。 自分の場合は博士課程から研究室を変えたので、新しくテーマを選んで研究を始めた。 さて、テーマが決まれば後は研究するだけだが、どうやって進めていくのか。 まずはテーマに関連する先行研究を調べる。 これはかなり大事な作業で、テーマに関する分野の勉強と、自分がやろうとしていることが既にほかの誰かにやられていないかどうかをチェックする意味もある。 研究結果はいつも世界初でないといけない。 もし研究の途中で同じことを先にやられてしまうと途中でテーマを変えたり手法を変えるなど、工夫する必要があるので注意である。 自分がやりたいことが既知ではないと確認出来たら、おおよその研究計画を立てる。 後は計画に沿って研究を進めていく。 特に理論物理の研究の話だが、先行研究の論文の中で重要なものをいくつかピックアップして計算を追ってみるのも大事である。 そこで議論されていることが本当に正しいのかどうかということを確認できる。 また、どんな仮定を用いてその結果を出しているのかといったことも細かくチェックできる。 自分が実際に計算する際にも参考になることがある。 論文の計算を追うという作業は、物理学科の学生なら普段から物理学の本を読むときにやっているはずなので、同じ要領でできる。 普段の勉強がこういうところでも生きてくる。 ここまで書いてきて、研究は一人でするもののように見えるが、ずっと研究室にこもって一人で作業しているわけでもない。 同じ研究室の同期や先輩、後輩などと議論を深めたり指導教官に助言をもらったりすることも貴重な時間である。 博士課程になると学部や修士のときとは違って講義はほとんどなくなるが、研究の議論や進捗確認のためのゼミがあることが一般的である。 ゼミは指導教員や共同研究者と行い、頻度は週に1回程度であることが多いと思う。 毎週のゼミで進捗や成果を報告するわけだが、1週間の間に何も成果がないと具合が悪いので、ゼミの前日などになると、どうにか頑張って研究を進めようとする。 ということで、博士課程の学生のやることは、最終的な成果を論文にとして出版することを目指しつつ、毎週コンスタントに進捗を生み出すように努力することであり、これが日常になる。 そんな感じで過ごしていると、たまに研究会やセミナー、学会があるので、人の発表を聞いたり自分の成果を発表したりして見聞を広げることができる。 特に日本物理学会は大きなイベントで毎年春と秋に開催されている。 分野は非常に細分化されているので、どんな研究もどこかの領域に属することになると思う。 最近はコロナの影響でオンラインでの開催が続いていたが、対面形式での学会も復活してきている。 開催地まで足を伸ばすのは旅行感覚でリフレッシュにもなるかもしれない。 もし自分の研究成果を発表するとして発表の質疑応答で処されたとしても、あとあとでいい思い出になる(はずである)。 そういうことを繰り返して心身ともに成長していく、という感じである。 とはいえ、研究はうまくいかないことも多く、いつ成果が出るのか分からないものである。 いつうまくいくかわからないものに卒業の可否が握られているというのはメンタル的にプレッシャーになるもので、きついこともたくさんあると思う。 卒業するころには、年齢的にも27歳前後になってくるので、就職した周りの同期は会社で3年目とかになっていて、重要なプロジェクトを任されだしたりしているだろうし、結婚や出産、子育てといったライフスタイルの変化も大きい時期になっていると思う。 周りがそんな中、博士会の学生は黙々と研究などをやることになるので、そういった意味でもメンタル的に追い詰められやすい。 しんどくなったときは、できるだけ一人になりすぎないことが大事だと思う。 自分の心境を話せる相手がいると、精神的にだいぶ楽になる。 相手がいなければSNSなどに呟いてみたり、今までかかわってこなかったコミュニティに参加してみたり、とにかくアクションを起こしたほうがいい。 最初の一歩を踏み出すまでが億劫だが、一人で悶々と考え込んで病むよりはだいぶマシである。 生活の中心を研究だけにするというのは少し危険だと思う。 研究がかなりうまくいっていて、卒業に何の心配もないならよいが、そんな人ばかりでもないはずである。 そういときは少なくとも、もう一つ趣味的な活動を持っておいて、研究がだめでもなんとかなるというメンタルに持っていくほうが良い。 少し脱線した気もするが、なんだか長くなってきたので今日はこのくらいにしておこうと思う。 今度は博士課程のメリット・デメリットについて、まとめてみるのも面白いかもしれない。


2023/11/14 博士とは何者なのか

 SNSなどを見ていると、博士課程という得体の知れないものに対して、様々な意見が飛び交っていることがよくある。 特に博士課程進学後の進路については誇張されたネガティブな話が多い気がする。 筆者も博士課程経験者の一人として、博士とは何者なのか、どのようにしてなることができるのかを紹介してみようと思う。 まず博士課程というものがどういう位置にあるかということを改めてみてみる。 そもそも、どのようにして博士課程に行き着くのだろうか。 長く険しい(?)受験生活の末に大学に入学したとしよう。 そこで大学生活を謳歌しつつ卒業研究を行って卒業論文を書くか、それに相当するような課題を修了した人には学士の学位が授与される。 この時点で22歳である(若い!)。 さらに進んで研究がしたいということになれば、修士課程に進学し、指導教員(主に教授や准教授など)の研究室に籍を置いて研究を行う、というのが一般的である。 そこである程度のまとまった成果が得られれば修士論文としてまとめ、それが評価されることで修士の学位が与えられる。 スムーズに進めば2年で終わりなので、この時点で24歳である。 そこからさらに研究を深めていきたいという物好きであれば、博士課程に進学することになる。 同じ研究室で同じテーマで研究するもよし、自分の興味によっては他の分野に転向するもよし、といったふうに人によって様々な形がある。 そこで研究を進めた結果、華々しい成果が出て論文投稿や学会発表を無事に行い、卒業審査資格が認められれば研究を博士論文として提出することになる。 分野や大学によっても異なるが、少なくとも査読付きのジャーナルに論文を投稿することであったり、国際学会で研究発表することなどが卒業審査を受けるための条件になっているところが多い。 提出した博士論文や研究内容について専門家からの厳しい審査をのりこえることができれば、晴れて博士の学位が与えられる。 博士課程は一般的に3年間なので、ストレートで進めばこの時点で27歳である。 以上が大学で学部から博士課程に行くまでの一般的な道のりである。 もちろんすべての人がこんなにトントン拍子に進むというわけではなく、途中でいろんな挫折やら紆余曲折がある場合もある。 いったん社会に出てから大学院に入学するという場合もあるし、大学に籍を置かずに論文だけで博士をもらう、論文博士という選択肢もある。 博士課程とそれまでの学士や修士との違いとしては求められる成果の質と新規性があげられる。 学士や修士の卒業研究では指導教員が親身になって教えてくれることが多く、文献をまとめたり新規性がない場合でも卒業できる場合がほとんどである。 それに対して博士課程での研究では新規性が必須で、成果物も学術論文として専門家からの追及に耐えられるようなモノが要求される。 こういった事情もあり、博士を持つことが研究者としてのスタートラインに立つことと同義だとする考えもある。 最初の話に立ち返ると、博士とは研究者として最低限の教育と研究活動の経験を得た者ということができる。 他にも博士課程の生活や進学するメリットなど書けることはたくさんあるが、長くなるのでそれらは次の機会にしよう。


2023/11/8 無駄を楽しむ

 現代社会では、無駄というものは忌み嫌われている。 何をするにしても効率化が推奨され、目的の達成に対して必要のない(無駄な)時間やコストを取り除くことが求められている。 目標がはっきりしていて、期限やリソースが限られている場合、関係ないことに時間やコストをかけると目標の未達成につながる。 これは容易に想像できるので、確かに無駄の削減は理にかなっているといえそうだ。 特に会社などでは上記の制限があることがほとんどで、なおかつ利益を上げ続けなければ会社自身の存続が危うくなるため、目的の達成は重要である。 目標はたいていの場合、会社の利益につながるものが設定されていることがほとんどだからだ。 社会で働く多くの人は会社やそれに類似した組織に属するので、必然的に社会で働く人は無駄を出来るだけ省くような思考になる。 出来るだけ短い時間で、出来るだけたくさんのことをしたい。多くの成果を出したい。こういったことを考える。 その考え方は仕事以外のことに対しても影響が出ていると思う。 例えば、普段の生活で電車やバスなどの移動の時はその時間を利用してスマホで漫画を読んでみたり、洗い物をしながらYouTubeやサブスクで動画を見てみたりする。 休日であっても朝から晩まで予定を入れて、出来るだけ何かをしようとする。 生活における無駄を省こうとしているようにも見える。 よくある話だと思う。 行動的なのは素晴らしいことだが、個人的にはいつも何かをしていて何もしない時間がないというのは少し疲れるような気もする。 そもそも、人生や日常生活における無駄とは何だろうか。 人生は人が生きた時間や生きている間に何をしたか、ということだと考えられる。 人生における目的や意味というものはもともと何もなく、人が後から付け加えるものである。 なので無駄という概念を定義できない。 人が後から設定した目標に対して、その人の行動や物事の進め方が無駄であるということがありうるだけである。 また、日常生活というのは人が生きるための活動全般だといえる。 衣食住や、それらに関すること全般の活動になるだろう。 しかし、生きることが目的だとすると、それ以外のことは無駄なのだろうか。 趣味で本を読んだりスポーツをしてみたいといった活動は生きるためにはなくてもよいものかもしれないが、そういった活動をすべてなくしてしまうのは、あまりに人間的でない。 本当に生きることだけを考えるのであれば、動物と何ら変わりない。 ということで人間的な趣味趣向の活動まで含めて考えてみる。 しかしこれはかなりあいまいな話である。ある人にとっては無駄なことでも、他の人にとっては意味のあることという場合もある。 例えば、洋服のおしゃれが趣味の人はそれ自体を楽しく感じることができるが、そうでない人は服を選んだりする時間を出来るだけ短くして他のことに時間を使いたいと思うだろう。 人によって何が無駄なのかは変わってくる。一般的な無駄というのは考えにくいものである。 総じて考えると、人生や生活に無駄というものは、もともとないといえる。 少なくとも万人に共通する無駄という概念はなさそうである。 それにもかかわらず、上述のように自分の生活に無駄があると思って省こうとし、何かと予定を入れてみたりマルチタスクをやってみたりするのは自分を疲れさせるだけである。 ないものを省こうとするのは無理がある。心身ともに疲れてしまう。 人生には意味などないのだから、無理に無駄を見つけて省こうとしても上手くいかないだろう。 現代の日本では衣食住に困る人のほうが少ないので、趣味趣向の時間が人生の大部分を占める。 なので無駄な活動の集まりこそが人生だともいえる。 結局のところ、無駄を楽しむことは人生を楽しむことといえるのではないだろうか。 なので大いに無駄を楽しもう。 楽しくなる方法を考えるべきだ。 そういうことを考えながら、だらだらとした休日を過ごすのも悪くないのである。


2023/10/31 ところで海が青いのはなぜか

 前回は空が青い理由を考えてみた。ところで外に目を向けると海もなかなかに青いが、同じ理由で青いのだろうか。 空が青い理由はレイリー散乱によって波長の短い光が散乱され、なおかつ、ちょうどよい距離を光が進んでくることによって青い光がたくさん地表に降り注いでいるためであった。 海の主成分は大気とは違って水である。 また、空から光がくる場合と違って、海の場合は底に光源があるわけではなく、海に入った光が跳ね返ってきたものを見ている。 もし海が青い理由が空の場合と同じであったとすると、浅いところや深いところで色が大きく変わりそうだと想像できる。 なぜなら海底までの距離が深ければ、光はそれだけ長い距離を進むということであり、その間に波長の短い光がたくさん散乱されるので、深ければ深いほど赤く見えそうだと考えられるからである(夕焼けが赤い理由と同じ仕組みで考えた場合の話)。だが実際のところそうはなっていない。海には浅瀬や深いところがあるが、多少の濃淡があったとしても青っぽいことに変わりはない。 ということは、何かしら異なるメカニズムがありそうである。 実際に調べてみると、海が青い理由は水そのものが赤い光を吸収するからだそうである。 これはなぜだろうか。そこで水とは何だったかを改めて考えてみよう。 水はH2Oという分子の集まりでできている。この分子は、マイナスのイオンになる酸素原子1つと、プラスのイオンになる水素原子2つからできており、水素原子の偏りからくる分極によって電気双極子モーメントを持つ。 また、分子の励起状態によっては様々な振動モードがある。 このうち、一つの振動モードの周波数が赤色の光が持つ周波数と同じくらいなので、赤色の光がよく吸収されるという具合である。 これによって海が青いにもかかわらず、コップの水が無色透明に見える理由も説明される。 海は水がたくさんあるので赤い光が吸収されてしまって青色の光が良く見えるが、コップの水の場合は量が少ないのであまり光が吸収されず、透明に見えるのである。 海ほど深くなくても、ある程度の深さの容器に水をためるとうっすら青いことが確認できる。
同じ青でも理由の違う青であるということらしい。


2023/10/26 いまさら空が青い理由を考えてみた

 パソコンでの作業につかれて、ふと窓の外を見ると青空が広がっている。 よくある光景だと思う。色覚が正常な人であれば誰でも平等に体感できる青色だと思う。 昔見た空も青かったし、今見ても青いことに変わりない。 ということで、空が青いという事実は常識ということになっているのだが、常識は疑ってみたくなるもので、 改めて考えてみたいと思う。 空が青い理由をネットで調べてみると、「太陽光が大気中の微粒子にあたってを散乱されるとき、波長の短い光をよく散乱するので空が青く見える」などと説明されていることが多い。 これは少々言葉足らずな感じがある。 まず空が青い理由を考える前に色を感じるとはどういう仕組みなのかを知っておく必要がある。 人の目は入ってきた光を感知できるようになっているが、ちょうど300nmから700nmくらいの波長の光を識別できるようになっている。 このとき波長の長い700nmくらいの光は赤色として感じ、波長の短い300nmくらいの光は紫色として感じるようにできている。 肝心な青色は400nmくらいの波長の光である。 太陽光は一見すると白色だが、複数の色が混ざっているため白く見えている。 これはプリズムという道具を使って光を波長ごとに分けてみるとよくわかる。 モノに色がついて見えるというのはモノに当たって跳ね返ってきた光の波長を感じているということだ。 ここで元の問題に立ち返ってみると、空が青いということは空を見上げたときに空からやってくる光の波長が400nmくらいだということだ。 なので「空がなぜ青いのか」という疑問は、「なぜ空からやってくる光は波長が400nm程度なのか」と読み替えることができる。 まず、なぜ短い波長の光が散乱されやすいのだろうか? 光が電荷をもつ粒子と散乱するときの理論はよく調べられていて、特に波長に対して直径が小さい粒子と散乱する場合をレイリー散乱という。 このレイリー散乱の特徴は散乱断面積(散乱されやすさ)が波長の4乗に反比例するということだ(だから波長が短いほうが散乱されやすい)。 これを確かめるには多少の計算が必要だが、ちょっと調べればいろいろ出てくるのでここでは割愛する。 大気中に最も多いのは窒素や酸素だが、それらの分子の大きさは0.36nm程度のスケールである。 これらの粒子に太陽光が当たった結果、レイリー散乱が支配的に起きるので短い波長の光が散乱されることになる。 ところでもう一つ疑問がある。 冒頭の「大気中の微粒子が波長の短い光を散乱する」という文言だけでは、なぜもっと短い波長の紫色ではなく青色なのかということを説明できない。 青色よりも波長の短い紫色の光があるからだ。 波長が短いほうが散乱されやすいなら、なぜ空は紫ではなく青なのだろうか。 確かに紫色の光波長が短いので青色の光よりもよく散乱されることになるが、散乱されすぎて互いに干渉し地表に届く前に見えにくくなってしまう。 なので青色の光がちょうどよく散乱されて地表に届き、空が青く見えるということである。 ちなみにこれと同じ仕組みで夕焼けがなぜ赤いのかも説明できる。 日が沈むとき、昼間よりも太陽光がより長く大気中を飛ぶことになるので、光はよりたくさん散乱される。 これによって波長の短い光はほとんど散乱されて見えなくなってしまって、波長の長い赤色の光だけが残り、空が赤く見るということである。
 空が青い理由を考えていくと大気中の粒子の大きさに関係することが分かった。 地球の大気組成が今と全く違っていたら、空の見え方も全く異なっていたかもしれない。 それに重力の大きさがもっと大きかったりしたら、ほとんどの分子は地表付近にとどまって上空の大気組成がもっと軽くて小さい粒子ばかりになり、これまた全く違う空になっていたかもしれない。 そう考えると、空が青いことさえ当たり前ではないことがわかる。 何重にも条件がうまく重なって今の空が保たれているのだ。 当たり前でない事実が日常的には当たり前であることの大切さを噛みしめながら今日も生きていく。 外に出る機会があったら、空を見上げてみるのもいいかもしれない。


2023/10/24 朝型のすすめ

 学生の頃は夜遅くまで起きていて昼頃まで寝ていることが多かったが、働き出してからは強制的に朝型の生活になった。 それがいいのか悪いのかは置いておいて、とにかく朝のうちに起きるということが1日の充実感を高めてくれると思う。 まず、朝のうちに起きると1日が長い。正確には起きている時間が同じであっても、起きているうちの明るい時間が多くなる。 日付が変わるまでにいろんなことができる。昼に起きると1日は半分終わってしまっている。 具体的に言えば昼の12:00に起きると、24時間のうち半分は終わってしまっている。 また別の観点で考えてみる。 毎朝、日の光を浴びると体内時計が調整されて体中の生物的な機能もうまく働くようになるという。 ということは朝型の生活は心身の健康にも良いということだ(自明かも)。 さらに、心身が健康な状態なので物事にも集中しやすくなり、仕事の効率も上がるという。 個人的にはおきてから2,3時間後くらいが最も集中できる気がする。 また、早起きして少し早めに出社するということを考えると、来ている人が少ないので邪魔が入りにくく、予期しないタスクが積まれることも少ない。 より集中しやすい環境を作れるのだ。 こう考えていくと、朝型の生活はメリットだらけだ。なんだかありきたりな結論だがそういうことだ。良いものは良いという自明な結果だ。 「早起きは三文の徳」ということわざもある通り、朝のうちに起きて作業をするのは自分にとっても体にとっても良いことだ。 三文というのは今のお金でいうと90円くらいの価値らしいのでことわざとしては微妙だが、実際のところもっと大きな価値がありそうだ。 そんなことを考えながら二度寝した。


2023/10/17 なぜか身近な100という数

 "100"という数が人にとって典型的なスケールであるような気がする。これはなぜだろう? 例えば身長は100cmのオーダーであるし、年齢は100歳生きれば長生きなほうである。 また、テストなどの点数は100点満点の場合が多く、割合は最大が100%である。 Wikipediaで"100"を調べると、おびただしい数の関連事項が出てくるし、ことわざにも出てきたりする(「百聞は一見に如かず」など)。 おそらく、世の中のいろんなところに"100"という数字が出てくるのは人間にとってそのくらいの大きさが大きいものとして意識しやすいラインだからなのではないかと思う。 大きさの単位やテストの計算方法などは人間が決めるものである。 人が決めるものなので人が理解しやすかったり、イメージしやすいようにしておくものだろう。 そんなわけで人間社会には"100"という数字がよく出てくるのかもしれない。
 一方で実用的な面から考えてみると100という数字は素数ではないものの、2、4、5、などで割り切れるので使い勝手が良い。 また、一般的に普及しているのは10進数なので、2番目に桁上がりするという意味でも"100"という数字は特別だと思う。 10は、2と奇数の素数を組み合わせて作れる数のうち6の次に大きい数字で、そのあとに14、18と続く。 そんな10を掛け合わせるとできる数が100であるという見方もできる。 個人的には偶数と奇数の両方を約数に持つ数というのは割りやすいので便利な感じがする。 1週間も7日ではなくて6日であったらもう少し楽かもしれない。 これはゼミなどで当番を決めるときや1週間に複数の予定が入るときに等間隔で管理しやすくなる。 2日に一度ゼミを行うとすると1週間に3回やることになって、そこを複数人で回すなどができる。 少し話がそれた。 10進数が普及しているのは、人の手の指の数が両手合わせて10本であることと関係しているかもしれない。 ということは、もとをたどるように考えていくと"100"がキリがいい数字のように感じるのも結局は人の都合の良いようにルールを組み立てたからといえる。


2023/10/11 物理の本の読み方

 学生の頃、物理の本で勉強するときにはすべての計算を端から端まで理解しなければ先に進んではいけない、という精神で読んでいた。 これは確かにもっともなことで、どんなに簡単な計算であっても人の書いたことを無条件に信じてはいけないし、自分で実際に計算を追うことで理解が深まるものだと思う。物事を理解するために楽な方法はなく、自分で苦労して得た知識こそ自分の中に使える知恵として蓄積されて成長につながるのだ、みたいなことである。 物理学は自然科学なので理論から導かれる結果は再現性をもつはずで、それを検証することもまた自然科学として当然の営みである。 この方法はいかにも高い志に基づいていて、実践できれば良いが、一冊読むのに時間がかかりすぎるというデメリットがある。 特に分野の初学者であれば、1冊の本を丁寧に計算を追いながら読むと1年以上かかることもある。 どんな人間も無限に時間があるわけではない。 とりわけ学生であっても1冊の本を読むのに何年もかけていられない。 ましてや働きながら趣味で物理をやる場合にはなおさらである。 というわけで、最近はすべての計算を追うのをやめて、自分が気になったところや分からないところを理解するために計算をする、という方法を採用している。 特に著者がそこで議論しているところのロジックを追うこと目的とし、そのために飛躍があるところなどを計算で埋めるというやり方である。 このサボり法によって、中身のロジックをある程度に理解しつつ読むスピードを早めることができる。 後でよく使うような計算結果だった場合は使う時に計算しなおせばいい。 自分がその本から何を理解したいか決めているなら、書いてあることがすべて必要ということは少ない。 必要なものだけを拾っていくという感じである。


2023/09/23 数学や物理学の美しさと実際の問題

 社会に出て実際のタスクや問題を見ていると、数学や物理学の体系がいかに美しく整っているか、と感心するときがある。 人がやることにはどうしても曖昧さがあって、社会での問題というのは人がやることに密接に関係しているので、仕事とというものは必然的に曖昧で不確実である。 それに対して数学や物理学の世界は論理的で、議論を進めるうえでの曖昧さをできるだけ少なくすることができる。 特に数学では定義から出発して命題を証明していくというシンプルなスタンスでありながら高度な抽象化や多様性を持っていて美しいと思う。 物理学でも数学の恩恵で論理的かつ定量的な議論ができるし、考えた理論が実際の世界を記述しているのかどうかを判断するために実験で答え合わせをすることもできるという面白さもある。 こちらも出来るだけ少ない仮定からできるだけ多くの物理現象を記述したいという欲求があり、そんな豊富な内容を含んでいて、かつ論理的に整然とした理論は美しいものだと思う。 究極的に言えば、一行の数式で宇宙を表したいというのが物理学の目標の一つといえるのではないだろうか。 これらは論理的な議論を行うために、ある種の理想化された世界であるともいえる。 社会の問題となると、なかなかこうはいかない。 思うに人間自体が問題にかかわってくるとパラメータが多すぎるのではないかと思う。 人間同士が複数関係する場合は多体問題であるし、人間自体が大量の内部自由度を持つ小宇宙みたいなものなので、本質的にカオス的だと思う。 言い換えると、少しのパラメータの変動がその後の結果を大きく変えてしまうのだと思う。 なので社会で起こることは100%の確度で予測することが難しい。 にもかかわらず決められた期限内に一定の成果を求められるのが会社での仕事である。 社会での問題というのはこういったジレンマを抱えているという難しさもあるかもしれない。 先がどうなるかは誰にもわからないということを受け入れつつも、やるべきことをいつまでに終わらせなければいけないのかを考えて作業をするのはかなり疲れるものだと思う。 考えるべき内容に自分でコントロールできない要素があるからだ。 人間は自分が思い描く理想と現実とのギャップを感じた時にストレスを感じるらしいから、自分でコントロールできないものに振り回されたりすると余計に疲れるのだろう。このあたり社会で生きていくにはどうにも避けがたいものである。 ただ、こんな具合に社会で起こる問題とともに生きていくのは難しいものだ、ということを認識しておくだけで少しは気が楽になると思う。 前提として難しいことをやっているので、それだけでみんな偉いはずだ。きっとそう。 そんなことを考えながら寝た。


2023/09/16 効率化は人を幸せにするか

 現代は何をするにしても効率化を重視する傾向にある。 これは社会を生きる人にとって本当にいいものなのかを改めて少し考えてみたい。 効率化をすることのメリットは何だろうか。 仕事で考えると、タスクを速く進めることができたり、同時並行してより多くのことができるということがメインだと思う。 これにより、1つ当たりのタスクにかかる時間を少なくすることができて、同じ時間でより多くのタスクをこなすことができる。 これは時給制で人を雇う側からすると大きなメリットだと思う。 同じ人から同じだけ時間を買っていたとしても仕事の効率が上がれば、その時間で還元される成果が増えるからである。 逆に雇われる側からすると同じ時間を売ったとしても効率化が進めば、やるべきことが増えていくので損なのかもしれない。 1つのタスク当たりの価値は少なくなっているといえるからである。 物事が効率的になればなるほど便利だという漠然としたイメージがあったが、時給制の会社で雇われることを考えると一概にいいものとは言えないようである。 ただ社会全体の進歩で見ると、効率化に力を入れれば発展のスピードが上がるということであり、便利な世の中がより早く実現するという意味ではいいのかもしれない。もう一つ効率化に対する疑問点を思いついた。効率化を進めることには限界があるのではないだろうか。効率化によって同じ時間で多くのタスクができるようになるが、そのタスクをこなすのは人間である。 人間がこなせるタスクの量には限りがあるように思う。短時間でいろんなタスクにひっきりなしに取り組んだりするとかなり疲れる。 効率化が進んでいくと同じ時間でやるべきことが増えていくということで、これに人が対応していくには限界がありそうである。 なので単に同じタスクを効率的にこなすということよりも1つのタスク当たりに人が行う作業を減らすということが重要だと思う。 これは自動化である。 人がかかわる部分を必要最小限にすることで効率化の限界を押し上げることができそうである。 もしかしたら、自動化を推し進めた極致として実現される世界では仕事は人がやるものではなくなり、労働という概念さえなくなっているのかもしれない。 そんなことを考えながら昼寝した。


2023/08/11 流行りのAIについて

 最近のAIブームは勢いがすごい。 もともとAI技術によって社会をよくしていこう、DXしていこうという流れは大きくなってきていたと思うが、その中でChatGPTが社会に与えたインパクトは大きかった。普段は話題に上がりにくかったAI関連の情報がメディアでも取り上げられるようになった。特に生成系AIがエンタメなどと相性が良かったのも大きいかもしれない。ChatGPTのように自然な文章を生成するAIはチャットで、StableDiffusionなどの画像生成AIは画像加工アプリなどに技術が応用されて発展し続けている。 それ以外にも音楽や動画、小説など何でもかんでもAIで作れるようになってきたので、アーティストやクリエイターの地位を危うくるのではないかという心配の声も聴くようになった。AIがエンタメやアートの部分にこんなにも早く適応してくるとは誰も予想してなかったので余計に不安に思うのだろう。実際のところどうなのだろうか。現状ではAIが作った文章や画像は人が作ったものと比べるとどこか違和感があったりして、なんとなく区別できるので、個人的にはまだまだ心配ないかなと楽観視している。もっとAIの進化が進んで人が作るものと遜色ないものが作れるようになったら、あえて人が作ったものとして付加価値が付いたりするのだろうか。それとも人の制作物が淘汰されていくのだろうか。前者であればなんともSFチックで面白そうな気がする。機械で大量生産した製品よりもオーダーメイドやハンドメイドの製品のほうに価値が付くことの延長みたいな感じだろうか。このようにものづくりに関しては手作業から機械化への前例があるので、後者のように人間による制作物が完全に淘汰されたり、クリエイターやデザイナーが仕事を失うようなことにはならないと思う。むしろAIと人間が互いに影響を与えながら、並行に発展していきそうな気がする。AIを商売敵としてみるのではなく、便利な道具、よきアシスタント、よきライバルとするべきだ。先のことは誰にもわからないが、そうなればいいと思った。


2023/07/04 古い本の良さ

 昔(例えば30年以上前)に書かれた本を見ると、現代の本よりも深く考えて書かれたように感じるのはなぜだろうか? 現代になればなるほど知識は蓄積して、本を書く人は賢くなっているのではないのだろうか。 これは、もちろん一概には言えないだろう。時代が進めば昔にはなかった考え方や事実が発見されたり、新しい問題が出てくるからだ。 あくまで、これまでいろんな本を読んできた体感としてのものだ。 それに深く考えたからと言って本の内容が事実として正しいかどうかわからないし、内容が優れているとも限らない。 ただ深く考えられたものは理由がしっかりしていたり、理論や思想のバックグラウンドが豊富で、そういった意味の豊かさがあって面白いと思う。 ところで、そもそも深く考えるとはどういうことだろうか? 仮に、深く考えることを長く考えること、と読み替えてみる。 長くとはどれくらいなのかと聞かれると、例えば5年とか10年とかのスケールを想像してみる。 そう思うと現代で一つのことについて年単位で考えて結論を出すということが廃れてきているかもしれない。 学問でも何でも、現代人は早く成果を求められるようになってきている。 このせいで現代人の思考も早く浅く考えて素早く結論に達するような傾向が強まっているのかもしれない。 その影響が本の書かれ方に出てきていると考えられる。 生産性の高いサイクルを早く回すことも大事だが、たまには地に足つけてものを考えてみるのも大事だよなぁ、と思ったりした。


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