日常あれこれ

物理に限らず、いろんなことを綴るページ。 個人の妄想、妄言が含まれるかもしれませんが、あしからず。 年ごとにまとめてみました。

物理学について、いろんな切り口でnote記事を書いているのでこちらもどうぞ。 noteを始めました!

最近の話

2026 1/21 文章を書くと自分の知らない自分に出会える

自分が以前に書いた文章を読み返してみると、本当に自分が書いたのか怪しくなることがある。何しろ書いた記憶がない。それに普段自分が頭の中で考えているときの自分とも少し違う自分がそこにいるのである。

自分で考えごとをするときの自分と、文章になったときの自分は少し違う。 頭の中で考えるときは話し言葉がメインだが、文章になると論理が強めでカチッとした感じになる。自分というものも媒体によって多面的なのかもしれない。

自分が書いた文章を読むと、別の自分と対話しているような感じがする。 大人になると、なかなかまとまった文章を書く機会というのは少なくなりがちなので、日記のように自分で別の自分と対話できる機会を持っておくと、それ自体がいい自己分析になりそうである。自分でも意外と自分のことをわかっていなかったりするので、自己分析などは何度やってもいい。大事な決定をする局面で、自分を深く知っておけば自分にとって適切な判断を下せるというものである。


2026 1/5 閉塞の時代に飛躍を願ってもいい

毎年のように新しいサービスや製品がリリースされて、人々の思想もアップデートされて行っているはずなのに、何となく閉塞感を感じたりするのはなぜだろう、とよく思う。それに、SNSやそのほかメディア、最近の音楽や何らかの芸術作品などに触れると、上手く言語化できない暗い部分を感じることがあって、閉塞を感じているのは自分だけではなく他の人もそうなのではないかと思う(観測範囲が狭いのであくまで個人の感想)。

閉塞を感じる理由をいくつか考えたり、本で読んだりしてみたが、すべて書くと長くなるので1つだけ挙げてみる。

近年の閉塞感の理由の1つとして、社会のいろんな問題が各人の自己責任として、個人の問題に置き換えられてしまっていることがあるのではないかと思う。 数十年前と比べて現代ではキャリアや生き方について個人でいろいろと選択できる自由度が増えた分、何でも自己責任であるとみなされるようになった節がある。たとえば、どこに住んでどんな仕事に就いてどんな服を着て何を食べるのか、などなど、すべて自分で選ぶ。さらに趣味は以前に比べると多様化し、インターネットとSNSの普及によって、これまでつながることがなかった人々の交流が盛んになり、ニッチなコミュニティが乱立する時代である。その中でどんな趣味をもち、どんなコミュニティに属するのかも自分で自由に選べる。

自由は一見するといいことだが、何でも選ばないといけないのは疲れる。 選択するには考えないといけないからだ。そして選んだということの責任は自分にある。ほかの誰でもない自分の決定によって、今の自分の状態があるからである。 ということは、今の自分が不利益を被っているならその責任は自分にあるということになる。これは合理的かもしれないが、あまりに救いがない。何でもかんでも自分のせいにすると、しんどさを感じるのは自明ではないだろうか。

たとえば、依然と比べて集中力が落ちているのは自己責任だろうか。スマホが普及した現代では、日常的にインターネットに触れていて、常に大量の情報が頭に流れ込んでくる。 SNSやアプリの広告に注意をそらされたり、インスタントな情報にさらされることで集中力は低下するのではないだろうか。もしそうだとして、スマホを手放すことも難しい。最近ではスマホアプリやQRコードを読み取ることが前提のサービスも多い。スマホで注文することが前提の飲食店もあったりする。

そういうわけで、これは社会的な問題ではなかろうか。社会はスマホの普及とデジタル化を推し進めようとしているが、それによって個人の集中力は奪われているのかもしれない。 だから、集中力がないのは自分のせいではなく、社会のせいだというのもあながちまったくの見当外れではないのかもしれない(なんだか言い訳のようにも聞こえるが)。そんな感じで、たまには言い訳をつけて休んだりしてみるものいい。

適度に休みながら勉強(または作業)するのが結局は効率がいいのだ。 休憩中はできるだけスマホを見ずに本を読んだり景色を眺めたりすれば集中力も戻ってくるだろう。社会はきっと少しずつ良くなっているのだろうし、自分も少しずつ勉強は進んでいるのだろう。そう思うことにすると、新年に飛躍を願うのも悪くない気がする。


2025/12/23 スマホにマルチタスクを強要される

休憩時間や、仕事から帰ってきたタイミングでスマホを無意識で開いてしまう。 気づくと30分くらいたっている。これはスマホに時間を奪われているといえるかもしれない。 時間は言うまでもなく貴重である。ましてやビジネスパーソンの時間は貴重である。 その貴重な時間が知らない間に失われてしまうのは避けたい。

しかもスマホは時間だけでなく人の集中力も奪っていく気がする。 スマホを使っていると、LINEで返信を待っている間にニュース記事を流し読みしたり、 複数のゲームをマラソンしたりといった使い方になりやすい。 なぜかというと、アプリによってスマホが多機能になり、 スマホで何でもできるようになっているからだ。 ひとたびスマホを開くと、本来の用途以外のところに目が行く。 メールを確認したかっただけだが、ニュースを確認したりYouTubeで動画を見始めたりしてしまった経験がある。

こういった複数の作業を同時に行うことはマルチタスクといわれる。 コンピュータならまだしも、人間にとっては有害な作業方法だといわれている。 マルチタスクは同時に作業をこなしているように見えても 実は脳内で意識を高速で切り替えながら作業しているようなものらしい(十分にリサーチできていないので何とも言えない)。 経験的には複数の作業をこなしていると、1つだけの作業に没頭していた時よりも脳が疲れている感覚になる。 そうかもという気がするが本当のことは実際に調べてみないと何とも言えないのでまた今度調べよう。

スマホによって奪われた時間と集中力を取り戻すには、スマホを頻繁に開かないようにする工夫が必要だ。 しかし、そのためのベストプラクティスをまだ見つけることができていない。 スマホの閲覧時間に上限を設けたり、モノクロにしたりというのがあるが、本当に効果あるのだろうか。 どちらもしんどくなって設定を解除してしまいそうだ。

個人的に有効なのはスマホに入れるアプリを最小限にすることである。 とくにマンガアプリは時間をとられて危険なので入れないようにしている。 少し地味だが、ホーム画面に表示するアプリを整理してすぐに目につくアプリを減らすというのもいいだろう。

また、SNSアプリを開くときは何か目的があるときだけにする。 特定の分野の動向について知りたいとか、何かを投稿したいときなどである。 逆に目的がないときにはSNSアプリを開かないようにする。

スマホを近くに置かないようにし、代わりに本を置いておくのもいいかもしれない。 空き時間にスマホをつついて時間を浪費するよりは、本を読むほうがましだろう。

万能な対処法はないが、いろいろ試して自分なりのスマホ対策を探していこうと思う。 そうして捻出した時間を使ってまた自己研鑽に励むのだ。


2025/12/12 LLM(大規模言語モデル)で何でもできるようになってきた

最近、ChatGPTやGemini、Copilotなど、LLMを使ったサービスの進化がめざましい。 今日はLLMについて思ったこと、見聞きしたことをだらだらと書いてみる。

プログラミングでも、単純なスクリプトくらいなら動くものを出すようになってきた。 日本語で要件を伝えて、対応するそれっぽいものが出てくるのはかなり便利だと思う。 とはいえ、バグは多いし、ハルシネーションもまだまだ起こる。 出されたコードを信用して、あまり確認もせずに実行すると普通にエラーになったりする。 とくに複雑なシステムや、コードが複数のファイルにまたがるような実装になるとバグが起きやすい印象だ。

プログラミングだけでなく、LLMにいろいろな仕事をやらせようという動きも加速している。 LLMが使えるツールを提供してメールを作成・送信させたり、 ローカルのファイルを編集したりSlackにメッセージを飛ばしたり、何でもありになってきている。 そのうち、事務作業はすべてLLMがこなすようになるのかもしれない。 そうなると人間はもっと生産的な仕事に集中して取り組めるようになるのだろうか。

また、人間しかできないと思われていたクリエイティブな領域にもLLMが入ってきている。 イラスト作成や小説の執筆などがその代表的な例だろう。 LLMに雑務を任せつつ、本業もLLMに手伝ってもらうのが当たり前になるのだろうか。 かといって人間が何もしなくてよくなるわけでもないように思う。 最近のLLMの回答精度は素晴らしいが、まだまだ細部が甘い場合も多い。人間がしないようなミスもする。

LLMは万能なエージェントではなく、使用者の能力を拡張するツールだという見方もある。 個人的にもその考えに対しては経験的に納得できる。 LLMから有用な回答を引き出すには、自分が今抱えている問題やお願いしたい内容を適切に言語化する必要がある。 そのためには客観的な思考力や言語化力を持っている人のほうが有利である。 そしてそういった人はLLMがなくても仕事ができる場合が多い。

つまり、LLMによって仕事ができる人とできない人の差が埋まるのではなく、むしろより溝が深まるという見方である。 結局、LLMをうまく使い、LLMに使わるだけの人間にならないためには自己研鑽が必須になる。 さらに今までは人間がやるしかなかったタスクもLLMに任せれば、 ある程度に質の高いアウトプットが早く出てくるようになったため、 質の低いアウトプットしか出せない人やLLMの回答をそのままうのみにするだけの人は 自分ならではの付加価値を見出すことが難しくなるだろう。

自己研鑽にLLMを使うというのもアリかもしれない。 勉強したい分野のテキストをLLMにインプットしておいて説明してもらったり、 問題を出してもらって勉強するという新しいやり方も出てきている。 初学者のうちはなかなかLLMの間違いに気づかないかもしれないが、 回答の間違いを指摘できるようになれば、ある程度に力が付いたといえそうだ。

新しい技術が出てくると、人の仕事がなくなる(とくにプログラマ)という極端な言説が流れがちだが、 実際のところ、これまでの仕事はそう簡単にはなくならないとみている。 人間がやっている作業は結構ややこしいので、すぐにLLMに置き換わることはないだろう。 むしろLLMをうまく使ってやるぐらいの気持ちでいるほうがいい。 LLMで今後の世の中にどんな変化があるのかはわからないが、 どんな変化にも対応できる柔軟性を身に着けたいものだ。


2025/11/2 働くと本が読めなくなるのか?

「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という本がよく売れているようだ。 読書好きだったけど働きだしてから読めなくなったという事象に共感する人が多いのだろう。 そこで、表題のような疑問を考えてみた。 結論から言って、働くと本が読めなくなるかどうかは「人による」というほかない。

本を読めなくなりそうな状況としては時間的な余裕がなくなることがあげられる。 読書は時間がかかる。 小説なら短いものであれば1、2時間で読めるが、新書や少し骨太な本であればその限りではないだろう。

その時間を作ることができなければ、当たり前だが本を読むことができなくなる。

また別の理由を考えてみると、その人の体力が残っていないために本が読めなくなるということもありそうだ。 何かというと、時間を確保できたとしても内容を理解するだけの体力がないということである。

読もうとしている本の内容が易しめならそういうことは起こりにくいが、 しっかりした新書だったり、難解な本の場合はよく起こる。

働くとどうしても時間をとられるし、労働は疲れるものだ。 なかにはヘトヘトニなるまで作業をすることが労働だと思っている人もいるくらいである。

その人の労働スタイルが時間と体力をフル投入するようなものであった場合、本を読めなくなっても不思議ではない。 また、個人の労働スタイルというよりは職種によってはそもそも上記のようなハードワークを強いられることもある。 その場合は必然的に読書が難しくなるだろう。

結局のところ、この問題は人生におけるものごとの優先順位をどのように決めているのかということに依存しているのではなかろうか。 読書を人生の至上命題とするような人は本を読むための時間を何としてもねん出するだろうし、 働きだしてから優先順位が変わって、読書よりも大切なものができた人は自然と本を読まなくなるだろう。

ただ、個人的には読書の時間を大切にしたいと思う派である。 読書は自分を新しい世界に連れて行ってくれる可能性を持っている。 しかも1回買えば何度でも楽しめる。コスパもいいのだ。 人生の最後まで読書を趣味にしていたいものだ。


2025/8/17 楽しむ心とモチベーション

長く1つのことを続けるとうまくモチベーションを維持することが難しくなる。 何か物事に取り組むためのエネルギーや情熱といったものが枯渇してしまったようになるときがある。 そんな時はどうすればいいのだろうか。 最近そんなことを考えていた。 ここのところ、どうにも作業のモチベーションが上がらないことがあったからだ。

そもそも情熱やモチベーションはどこからやってくるのだろうか? それは人によるだろうし、取り組むタスクの内容にもよるだろうと思う。 一般論はわからないので、まずはN=1の自分の場合を考えてみる。 個人的には、これまでの経験から言ってモチベーションが高くなるのは、 新しいことを知ることができるときや、それによって自分の視野が広がったと感じるとき、 または自分の能力が向上していることが感じられるときだろうと思う。 それらに共通する感情は楽しさだ。 物事を楽しむ心だと思う。

何か自分の行ったアクションに対して楽しいと感じることができれば、またそれをやりたくなる。 もっと深く理解したくなったり、工夫をしようという気になったりする。 楽しいという感情が新しい情熱やモチベーションを生み出す。 もちろん、この考え方には賛否両論あるだろうが、個人的には楽しいかどうかが重要な観点だと思う。

あるタスクについてモチベーションが低い状態というのは、 自分がそのタスクを楽しめていない常田であるということを意味する。 逆に言えば、モチベーションを上げたければ、そのタスクを楽しめればいいはずだ。 まぁ、そうはいっても楽しい作業ばかりやってくることはない。 とくに仕事であれば、自分の意思にかかわらず、事務作業や雑務もこなさなければならない。 ではどうすればいいか。

話は単純で、そのタスクを楽しめるように努力することだ。 どんなものごとであっても自分の考え方によってその見え方は異なってくる。 たとえば、背景を知らなければ単純な事務作業であっても、 実はそれは誰かの役に立つ重要な作業かもしれない。 自分の思考をハックして何事も楽しむことができる癖を身に着ければ モチベーションのコントロールができるようになるに違いない。


2025/7/27 演繹と帰納

理論を構築するときの方法として、演繹法と帰納法がある。 演繹法は、一般的な原理や法則から特定の結論を導き出す方法であり、 帰納法は、特定の事例や観察から一般的な原理や法則を導き出す方法である。 数学や理論物理学では、演繹法が主に理論の構築に用いられる。 とくに理論物理学ではできるだけ少ない仮定から出発して、 できるだけ多くの予測ができる理論を構築できることが望まれる(さらにその予測結果が実験結果と矛盾しないことが重要である)。

一方で、帰納法は生物学や医学、社会学などの実験や観察からのデータ収集がメインになる分野で用いられることが多い。 各分野におけるデータから一般論を導くためのツールとして、統計学が強力である。 よって、統計学は本質的に帰納的な考え方にもとづいている。 しかし統計学を基礎づける確率論は数学の理論なので、演繹的である。 この違いが統計学を学ぶときに初学者を混乱させる。

数学や物理のロジックになれた人が統計学の本を読むと、 定理と証明のスタイルではなく、事例から説明するスタイルに出会うことになるからである。 多数の事例が並ぶテキストに翻弄され、何が重要なことなのかがわからなくなる。 事実から一般論へのカギを見つける必要がある。

本来はどちらの視点も重要なので、この機会に勉強してみようと思う。


2025/6/22 確率があらわすもの

確率は、あいまいな概念を定量的な数値で表してくれる便利なものである。 たとえば、サイコロを振ったときに1の面が出る確率は1/6である。 これは6回振ったときに1回は1が出るということではなく、 サイコロを限りなくたくさん振ったときに1の面が出た割合が全体の1/6になるという意味である。 ある事象が起こる確率は、全体の事象のうちでその事象がどのくらいの頻度で起こるのか、を表すものであるといえそうだ。 これを確率に対する頻度主義という考え方らしい(一方で、ベイズ主義では確率は観測者がその観測対象に対してある事象が起きると考える信念の度合いに対応する)。

もし確率がなければ、こういった形でものごとの起こりやすさを定量的に表現することが難しくなるだろう。 また、1の目または2の目が出る確率は1の目が出る確率と2の目が出る確率の和で表せる。 さらにすべてのパターンについて和をとると必ず確率が1になるという性質がある。 このように、確率は足し算と相性がよさそうである。 単純に足しあげることができるものといえば、図形の面積がある。 もしかしたら、確率は図形の面積のようなものなのかもしれない(きちんと勉強していないので不正確かも)。

よく考えると、確率は物理学にもかかわりが深い。 統計力学や量子力学では確率がメインのツールとして使われる。 他の自然科学分野においても統計学を通して確率に基づいた議論が行われることが非常に多い。 さらには社会科学などの人文系分野でも実証実験の結果検証などで統計を用いた分析を行うことがある。 これらのことから、数学の分野で何をやるのが実用的かと聞かれたとき、 確率論がもっとも適当だといっても過言ではないだろう。 一度は腰を据えて勉強してみるのもいいかもしれない。


2025/5/10 仕事というものについて考える

社会人になって数年がたつ。 そこで、改めて仕事について考えてみようと思った。 社会経験の少ないペラペラの人間が、 仕事について自分なりの薄い考えを書いてみようと思うのである。

そもそも仕事とは何だろうか。 日本国語大辞典によると、「すること。したこと。しなくてはならないこと。しわざ。また、からだを動かして働くこと。作業。」 または、「それによって生計をたててゆくための職。職業。業務。」といった説明がある (参考)。 人が社会人として経験するのはどちらかというと後者だろう。 生きていくためにはお金が必要で、お金を得るための選択肢として仕事がある。

仕事というのは、お金を得るための手段であるといえるだろう。 手段なので必須ではないはずである。 たとえば、誰かからお金をもらったり、投資で得た利益で生活することもできる。 しかし、多くの人は仕事をする。 それはなぜだろうか。

仕事以外でお金を得る方法を選択した場合、継続的な収入を得ることが難しいからだと考える。 生活をするためには、ある程度に安定して継続的な収入が必要である。 もしお金をくれる誰かがいたとしても、 その人がいなくなれば来月からお金をもらえなくなることもあるだろう (無償でお金をくれる存在というのは想像しにくいが、たとえば親などである)。 投資の場合も、社会情勢の変化や読みのはずれがあれば収入どころかマイナスの収支になることもある。

社会的な風潮もあるかもしれない。 一般的に、仕事をしていない人は一人前とみなされない。 そのため、社会で生きていくためのステータスとして仕事をすることもある。 いずれにせよ、社会で生きていくためのメイン手段として 仕事というものが認知されているといえるのではないだろうか。

簡単のために、ここでは仕事は安定してお金を得るためのものだと考えてみる。

しかし人間には感情があって、仕事に対してお金だけを求めるという割り切った考え方ができないようである。 仕事にやりがいや楽しさなども求めようとする。 自分も例外にもれず、そうだと思う。 私は人間に詳しくないのでなんとも言えないが、 人間というのは1つのことだけでは満足しないようである。 個人的な納得感や充実感も大事らしい。 仕事でもらう報酬が自分にとって十分であったとしても、 やりがいが感じられないとか、充実感が得られないといった場合には、 自分にとってそれが「よい仕事」であるとは思えないのである。

それでは、人間にとって理想の「よい仕事」とは何だろうか。

それは、お金だけでなく心理的な満足感も得られるものである。 ところが人が仕事に求めるものは千差万別なので、 万人に当てはまる理想的な仕事の定義を考えるのは難しいのではないかと考え始めた。

たとえば、仕事に自分の成長を求めてみたり、 人と一緒に何かをすることを求めてみたり、 誰かの役に立つことを求めてみたり、といった具合である。

そこで、仕事に求めるものをある程度しぼりつつ、 できるだけ多くの人に当てはまるものを考えてみたい。 理想の仕事というモデルで、 その仕事に求めるお金以外のプラスアルファの概念を ある種のパラメーターのように考えてみたい。 そこから自分なりの仕事の定義にもっていこうと思う。 そうはいっても、どこから考えるのがいいだろうか。

いろいろ考えた結果、仕事に求めるものを「他者から感謝されること」としてみることにした。 やや唐突だが、多くの人は他人から感謝されて悪い気はしないはずだ。 このモデルで都合がいいのは、人間は感謝するとお金をくれることがあることである。 つまり、感謝されるために他人に何かをすると、それが仕事になることがあるのである。 仕事をするという自覚なしに仕事ができることになる。 これは、生活のために仕方なく仕事をしている人にとっても朗報ではなかろうか。

ところで、人から感謝されるには、その人の不満を満たす必要がある。 つまり、ニーズに対して価値を提供することが重要であるといえる。

上記を踏まえて自分なりの仕事の定義を考えてみると、以下のようになる。

「個人や社会のために価値を提供し、その対価として金銭をもらうこと。」

逆にこのように定義しておけば、「他者から感謝されること」も満たすことができる。 なぜなら、誰かに価値提供することは、誰かに感謝されることだからである。

ただし、これは価値提供に対して人が感謝してくれることを前提にしている。 何かをしてもらって当たり前と思っている人が社会の大多数であればうまくいかないだろう。 どうも今まで生きてきたところでは、 たいていの人はなんらかの価値提供に対して感謝を示すように思われる。 よって、上記の定義はある程度にはワークするのではないかと考えられる。

大げさに書いた割には当たり前っぽい定義になってしまった。 世の中というのは意図せずうまく回っているのかもしれない。


2025/4/13 取捨選択の読書

書店に行くと目立つところに新刊の棚があり、簡単に新しい本を見つけることができる。 新刊の特徴として、世相を反映している、新しい技術について知ることができる、といった点が挙げられる。 これはこれでいいのだが、新刊ばかり追いかけていると疲れてくる。 新刊だけでも非常に多くの本があり、 おそらくだが、そのどれもが自分にとって素晴らしい内容というわけでもない。 読書にも取捨選択が必要だと思う。

できるだけ内容が精査されていて質の高い本を読むほうが、きっと有益である。 質の高い本を探り当てるための取捨選択である。 そのためにはどうすればよいだろうか。 本の山を前にして考え込むことになる。

ありふれた話だが、最近では他の人が読んだレビューを見ることができる。 それらを参考にするといいかもしれない。 自分が興味のある分野のうち、いいレビューが多い本を選択していくと良本に巡り合える確率が高くなりそうである。 これは自分が取捨選択したのではなく、見ず知らずの人によって取捨選択されているといえる。 自分で選別するのは実際に買って読む必要があるし、 時間と労力がかかるので大変だからその手間を省こうということである。

このとき、レビューの質は大事である。見識のある読者のレビューが多いほうがいい。 結局はレビューを選別することになりそうだ。 見識のある人は読者人口のうちの数%だとすると、全体のレビュー数が多いほうが質の高いレビューに出会える確率は上がりそうである。 ということは興味のある本のうち、できるだけレビューがたくさんついていてかつ評価が高い本を見るといい、ということになる。

ところで、レビューがたくさんついている本というのは多くの人に読まれている本であって、話題書ということになる。 話題書ばかり読むというのは何だがミーハーな感じがしてよくないような気がするのは私だけだろうか。 その分野の本を何冊か読んで経験が溜まってくれば本の装丁や目次、 著者からある程度に自分で本の品質を予想できるようになるかもしれない。 そこに到達するまでの辛抱ということで、最初のほうは話題書作戦をとるのがいいだろう。

これとは少し違ったアプローチとして、古典的な名著にターゲットを絞って本を探すという方法もある。 昔に出版されたにもかかわらず現代にまで残っている本というのは、質が高い証拠であるといえる。 長い年月を経て取捨選択されてきた本である。 こういう本を探すには岩波文庫の本などがいい。

古い本の内容は記述の仕方が今と違っていて読みにくいだとか、 現代では古くて使えない知識だとか言われることがあるが、 それでも読む価値があるものは多い。 一見すると現代に合わないと思われることでも、意外と共通する問題意識があったりするものである。 また、現代と異なる視点から語られるのであれば、それを読むことで自分とは別の角度の切り口を知ることができる。 ある対象について複数の視点から考察できれば理解も深まるだろう。

ただ、読みにくいというのは少し問題かもしれない。 読みにくければ頭に入ってこず、理解も深まりにくい。 しかし時間をかけて苦労しながら理解したことは体験として記憶に残りやすい。 この方法をとるならば、ある程度は腰を据えてゆっくり理解する覚悟がいりそうである。

そんな時間はないという人は、やはり話題書作戦がいいだろう。 比較的新しい本は内容が易しくて読みやすいものが多い。 話題書で入門してから古典で理解を深めるという流れがよさそうだ。 これも当たり前の結論かもしれないが、当たり前のことを当たり前にできる人というのはなぜか少ない。 そのため、当たり前のことを改めて書いておくことにも意味がある、ということにしておく。 いずれにしても即席で経験を積めたり理解が深まることはないので、 できるだけ現実的に効率がいい方法を模索しながら読書を楽しんでいくのがいいと思うのである。


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