日常あれこれ

物理に限らず、いろんなことを綴るページ。 個人の妄想、妄言が含まれるかもしれませんが、あしからず。 年ごとにまとめてみました。

一般向けの物理話を読みたい方はこちらもどうぞ。 Noteも始めてみました!

最近の話

2025/5/10 仕事というものについて考える

社会人になって数年がたつ。 そこで、改めて仕事について考えてみようと思った。 社会経験の少ないペラペラの人間が、 仕事について自分なりの薄い考えを書いてみようと思うのである。

そもそも仕事とは何だろうか。 日本国語大辞典によると、「すること。したこと。しなくてはならないこと。しわざ。また、からだを動かして働くこと。作業。」 または、「それによって生計をたててゆくための職。職業。業務。」といった説明がある (参考)。 人が社会人として経験するのはどちらかというと後者だろう。 生きていくためにはお金が必要で、お金を得るための選択肢として仕事がある。

仕事というのは、お金を得るための手段であるといえるだろう。 手段なので必須ではないはずである。 たとえば、誰かからお金をもらったり、投資で得た利益で生活することもできる。 しかし、多くの人は仕事をする。 それはなぜだろうか。

仕事以外でお金を得る方法を選択した場合、継続的な収入を得ることが難しいからだと考える。 生活をするためには、ある程度に安定して継続的な収入が必要である。 もしお金をくれる誰かがいたとしても、 その人がいなくなれば来月からお金をもらえなくなることもあるだろう (無償でお金をくれる存在というのは想像しにくいが、たとえば親などである)。 投資の場合も、社会情勢の変化や読みのはずれがあれば収入どころかマイナスの収支になることもある。

社会的な風潮もあるかもしれない。 一般的に、仕事をしていない人は一人前とみなされない。 そのため、社会で生きていくためのステータスとして仕事をすることもある。 いずれにせよ、社会で生きていくためのメイン手段として 仕事というものが認知されているといえるのではないだろうか。

簡単のために、ここでは仕事は安定してお金を得るためのものだと考えてみる。

しかし人間には感情があって、仕事に対してお金だけを求めるという割り切った考え方ができないようである。 仕事にやりがいや楽しさなども求めようとする。 自分も例外にもれず、そうだと思う。 私は人間に詳しくないのでなんとも言えないが、 人間というのは1つのことだけでは満足しないようである。 個人的な納得感や充実感も大事らしい。 仕事でもらう報酬が自分にとって十分であったとしても、 やりがいが感じられないとか、充実感が得られないといった場合には、 自分にとってそれが「よい仕事」であるとは思えないのである。

それでは、人間にとって理想の「よい仕事」とは何だろうか。

それは、お金だけでなく心理的な満足感も得られるものである。 ところが人が仕事に求めるものは千差万別なので、 万人に当てはまる理想的な仕事の定義を考えるのは難しいのではないかと考え始めた。

たとえば、仕事に自分の成長を求めてみたり、 人と一緒に何かをすることを求めてみたり、 誰かの役に立つことを求めてみたり、といった具合である。

そこで、仕事に求めるものをある程度しぼりつつ、 できるだけ多くの人に当てはまるものを考えてみたい。 理想の仕事というモデルで、 その仕事に求めるお金以外のプラスアルファの概念を ある種のパラメーターのように考えてみたい。 そこから自分なりの仕事の定義にもっていこうと思う。 そうはいっても、どこから考えるのがいいだろうか。

いろいろ考えた結果、仕事に求めるものを「他者から感謝されること」としてみることにした。 やや唐突だが、多くの人は他人から感謝されて悪い気はしないはずだ。 このモデルで都合がいいのは、人間は感謝するとお金をくれることがあることである。 つまり、感謝されるために他人に何かをすると、それが仕事になることがあるのである。 仕事をするという自覚なしに仕事ができることになる。 これは、生活のために仕方なく仕事をしている人にとっても朗報ではなかろうか。

ところで、人から感謝されるには、その人の不満を満たす必要がある。 つまり、ニーズに対して価値を提供することが重要であるといえる。

上記を踏まえて自分なりの仕事の定義を考えてみると、以下のようになる。

「個人や社会のために価値を提供し、その対価として金銭をもらうこと。」

逆にこのように定義しておけば、「他者から感謝されること」も満たすことができる。 なぜなら、誰かに価値提供することは、誰かに感謝されることだからである。

ただし、これは価値提供に対して人が感謝してくれることを前提にしている。 何かをしてもらって当たり前と思っている人が社会の大多数であればうまくいかないだろう。 どうも今まで生きてきたところでは、 たいていの人はなんらかの価値提供に対して感謝を示すように思われる。 よって、上記の定義はある程度にはワークするのではないかと考えられる。

大げさに書いた割には当たり前っぽい定義になってしまった。 世の中というのは意図せずうまく回っているのかもしれない。


2025/4/13 取捨選択の読書

書店に行くと目立つところに新刊の棚があり、簡単に新しい本を見つけることができる。 新刊の特徴として、世相を反映している、新しい技術について知ることができる、といった点が挙げられる。 これはこれでいいのだが、新刊ばかり追いかけていると疲れてくる。 新刊だけでも非常に多くの本があり、 おそらくだが、そのどれもが自分にとって素晴らしい内容というわけでもない。 読書にも取捨選択が必要だと思う。

できるだけ内容が精査されていて質の高い本を読むほうが、きっと有益である。 質の高い本を探り当てるための取捨選択である。 そのためにはどうすればよいだろうか。 本の山を前にして考え込むことになる。

ありふれた話だが、最近では他の人が読んだレビューを見ることができる。 それらを参考にするといいかもしれない。 自分が興味のある分野のうち、いいレビューが多い本を選択していくと良本に巡り合える確率が高くなりそうである。 これは自分が取捨選択したのではなく、見ず知らずの人によって取捨選択されているといえる。 自分で選別するのは実際に買って読む必要があるし、 時間と労力がかかるので大変だからその手間を省こうということである。

このとき、レビューの質は大事である。見識のある読者のレビューが多いほうがいい。 結局はレビューを選別することになりそうだ。 見識のある人は読者人口のうちの数%だとすると、全体のレビュー数が多いほうが質の高いレビューに出会える確率は上がりそうである。 ということは興味のある本のうち、できるだけレビューがたくさんついていてかつ評価が高い本を見るといい、ということになる。

ところで、レビューがたくさんついている本というのは多くの人に読まれている本であって、話題書ということになる。 話題書ばかり読むというのは何だがミーハーな感じがしてよくないような気がするのは私だけだろうか。 その分野の本を何冊か読んで経験が溜まってくれば本の装丁や目次、 著者からある程度に自分で本の品質を予想できるようになるかもしれない。 そこに到達するまでの辛抱ということで、最初のほうは話題書作戦をとるのがいいだろう。

これとは少し違ったアプローチとして、古典的な名著にターゲットを絞って本を探すという方法もある。 昔に出版されたにもかかわらず現代にまで残っている本というのは、質が高い証拠であるといえる。 長い年月を経て取捨選択されてきた本である。 こういう本を探すには岩波文庫の本などがいい。

古い本の内容は記述の仕方が今と違っていて読みにくいだとか、 現代では古くて使えない知識だとか言われることがあるが、 それでも読む価値があるものは多い。 一見すると現代に合わないと思われることでも、意外と共通する問題意識があったりするものである。 また、現代と異なる視点から語られるのであれば、それを読むことで自分とは別の角度の切り口を知ることができる。 ある対象について複数の視点から考察できれば理解も深まるだろう。

ただ、読みにくいというのは少し問題かもしれない。 読みにくければ頭に入ってこず、理解も深まりにくい。 しかし時間をかけて苦労しながら理解したことは体験として記憶に残りやすい。 この方法をとるならば、ある程度は腰を据えてゆっくり理解する覚悟がいりそうである。

そんな時間はないという人は、やはり話題書作戦がいいだろう。 比較的新しい本は内容が易しくて読みやすいものが多い。 話題書で入門してから古典で理解を深めるという流れがよさそうだ。 これも当たり前の結論かもしれないが、当たり前のことを当たり前にできる人というのはなぜか少ない。 そのため、当たり前のことを改めて書いておくことにも意味がある、ということにしておく。 いずれにしても即席で経験を積めたり理解が深まることはないので、 できるだけ現実的に効率がいい方法を模索しながら読書を楽しんでいくのがいいと思うのである。


2025/3/22 働きながら勉強することを考える

働きだしてから、働きながら勉強する方法について考え続けている。 仕事に関連したことや、そうでない個人的なことも含めて勉強したい内容は無数にある。 その中からピックアップして有限の時間で実行する必要がある。 見るからにこれは難題である。 時間が有限であることの制約はとくに大きく感じられる。 逆に無限の時間があるならば有限個の事柄について勉強することはたやすいだろうに。。。

いまだに良い方法は見つけられていない。 ただ、最近になってやっとわかってきたことは、 仕事終わりの疲れた状態で無理に時間だけ作って勉強を進めようとしてもうまくいかないという事実だ。 当然だが、時間を確保できても疲れていては頭が働かない。 頭が働かなければ本に書いてあることを理解できないし、記憶の定着も起こりづらい。

そういうわけで、疲れているときはいったん寝てしまって、 夜中に起きてからやるなり、次の日に朝早くから取り掛かるなりするとよい。 勉強するには時間と体力がいる。 このどちらが欠けてもいい勉強はできない。

時間を確保するには早起きや就寝前の時間を活用すればよいことはわかっている。 ということは、あとは体力を確保する方法を会得すればいいに違いない。 そのために、早めに寝て体力を回復させるのだ。

もしくは体力の上限値を挙げる方法を考えてもいいかもしれない。 適度な運動や規則正しい生活、栄養バランスの取れた食事などをここがけて継続していくのが近道かもしれない。

また、睡眠の質を上げることで回復力を挙げて、体力に余裕を持たせるというのもいいかもしれない。

いずれにしても、年齢とともに体力は落ちてくるものなので、 今のうちからケアして行けば今後もうまく走り続けられる習慣を作れそうである。


2025/3/20 目標を持ち続けることの大切さ

数か月とか年単位の長期プランでプロジェクトを実施するには目標を持ち続けることが大切である。 人間も生き物なので、疲れたりモチベが下がってくると楽なほうへ行ってしまう。 もちろん休むことも大切だが、モチベが下がると体が元気なときでも生産性が下がりがちである。

どう対処すべきだろうか? まずは達成すべき目標を明確にすることが大切だと思う。 未来で何をなせばいいのかがわからない状態では、今も何をすればいいのかわからなくなってしまう。 そして、その目標を忘れないようにすることも重要だろう。 他のタスクに追われていると自分が本来何をしたかったのかを忘れていしまうことがよくある。 そうなってしまうと、目標を達成するために遠回りなことをやったりしてしまいがちである。

そこで、古典的な手法ながら、 モチベを維持するためには達成すべき目標をいつも目に見えるところに置いておくというのが効果的かもしれない。 たとえば、目標を紙などに書いていつも使う机のところに貼っておくなどである。 根本的な解決策ではないが、多少の忘れ防止効果はあるだろう。

モチベを維持する方法についてはまだまだ最適解を見つけることができていない。 これからもいろんな方法を試して改良を重ねることが必要だ。


2025/3/18 日常における物理の必要性

ものすごい勢いで過ぎ去っていく日常の中にあっても、 毎日少しでも物理や数学を考えることが自分にとって大事なことだと思うようになってきた。 論理的に整理された理論に触れることで頭の中が整理されるような気がする。 人間の社会は物理の理論ほどキレイではないから、たまにはキレイなものを見て頭の保養をするような感覚である。

それに、日常にもたくさんの物理がある。 光の屈折や流体の運動などの目に見えるものから、地球に降り注いでいる宇宙線のように目に見えないものまで、 興味深い現象にあふれている。 その事実を忘れないように意識して過ごしてみるだけでも、楽しくなってくる。

人が娯楽としてアルコールをたしなむように、自分にとっては物理が必要だと思う。 それが心の潤滑剤になるのだ。


2025/2/24 AIは人の生活をどう変えていくのか

タイトルに書いた通り、 最近ものすごい速さで進化しているAIは人の生活をどのように変えるのだろうか、と漠然とした疑問を持った。 ただ、その疑問に対して明確な買いが出ているわけではないのであらかじめ断っておく。 そもそもAIを専門に研究している人でさえ今後のAIを取り巻く社会の動向は予測が難しいといわれている。 したがって、一介の素人に先のことを見通せるはずもない。

先日、ついにOpenAIのChatGPT-Plusのプランに登録した。 これまでは無料版で4oモデルを使っていたが、ようやく巷で話題のo-1モデルというものを使えるようになるわけだ。 無料版でとくに不自由を感じていたわけではないが、 さらに高性能なモデルがどの程度の回答ができるのかを試してみたいという好奇心で登録に踏み切ったのだった。

試しにo-1モデルに、「場の量子論について概要を教えてください」と質問したところ、かなりそれらしい回答を返してきた。 以下はそのときの出力の抜粋である。 「1. 背景と基本的な考え方 場の概念 量子力学では、電子のような粒子は「粒子」としての性質と「波」としての性質を併せ持つと理解されます。しかし、場の量子論では、電子自身が“場の励起状態”として捉えられます。つまり、「電子場」があって、その量子化された「ゆらぎ」が電子という粒子として観測されるわけです。光に関しても同様で、「電磁場」が量子化され、その励起が光子(フォトン)となります。 量子論と相対論の統合 非相対論的な量子力学(シュレディンガー方程式など)では、光速に近い速度で運動する粒子や生成消滅といった現象を扱うには不十分です。一方、特殊相対性理論ではエネルギーと質量が等価($E=mc^2$)であるため、粒子は高エネルギー状態では生成・消滅を起こします。これらを統一的に扱うために、「場を量子化する」考え方が必要となりました。 粒子の生成と消滅 場の量子論の大きな特徴として、粒子が生成・消滅する過程を自然に扱える点があります。たとえば、電子と陽電子(反電子)が生成したり対消滅したりする現象は、場の量子論の枠組みで統一的に記述されます。」

一見してかなり自然ではある。場の量子論を学び始めの学部生では、ここまで説明できる人も限られるのではないかと思う。 しかしよくよく見てみると不自然な点もある。 たとえば、場の概念の説明のところで電子は電子場のゆらぎであるとして説明しているが、どちらかというと励起のほうが正しいのではないか。 電子でも光子でもそれぞれに対応する場の励起として扱えるというのが場の量子論の良さの1つだといえる。 また、粒子の生成消滅が起こるのは高エネルギーに限った話ではない。 このように、ところどころで少し変かなと思うような記述になっている。 顕著なところでいえば、経路積分のことをパス積分と呼んでいた。 おそらく英語を直訳しようとしたのか、GPTがどのように出力しているのかはわからないが、 人間の間違い方とは少し違う感じもして、やや奇妙である。

新しいモデルを使ってみて、高性能であるということはわかったが、 AIの回答内容が高度であるがゆえにその間違いを見抜くには質問者に相当の知識や技量が必要であることに気づいた。 誰でも効率的に質の高いアウトプットができるようになるという期待もあるが、 AIの出力情報を正しく扱える人とそうでない人の格差が今よりもっと大きくなっていくのではないかと感じた次第である。

人の生活はどのように変化するのだろうか。 AIをうまく使える人は今よりもっと効率的に文書作成などができるようになるだろう。 それではAIをうまく使えるとはどういうことだろう。 考えるに、AIが出力しやすいような具体的なプロンプトの作成技術があり、 出力結果をうのみにせずに裏を取る慎重さを持っているということだと思う。 伝えたい内容を明確に書く訓練は理学系の論文を書く時に必要になるスキルである(文系でもそうかもしれないが筆者が知識不足であるためいったん理学系に限定している)。 また、何事も自分で考えて理解しようとする姿勢も理学系の研究者に必要な能力である。 これらの能力を確実に身に着けているといえるのは博士の学位を持っている人ではなかろうか。 ということは、今まで以上に博士人材がAI社会にとって貴重になるのかもしれない。

以上の議論は少し極端かもしれない。自分に都合のいいように書いたところもある。 ただ、高性能なAIを使うということは、これまで以上に使用者の知識が求められるというジレンマがあるというのが個人的な意見である。 AIは単なる便利な道具というだけでは終わらないだろう。 もし便利だからといって無策にAIを使い続けて人間の知能が退化し、 人間の知的活動全般をAIに代替されてしまったら本末転倒である。 そうならないためにもAIをうまく使う技術を考え続けなければいけない。


2025/1/26 よく寝ることはよく学ぶこと

最近、悟ったことがある。 長い人生の中で、ここに到達できたことは大きな意義があるだろう。 何かというと、「よく寝ると調子がいい」ということである。 あまりに自明かもしれない。 しかし自分にとっては目からうろこだったのだ。

今まで睡眠時間は6時間で十分だと思っていた。 6時間でも次の日は何とか活動できていたからである。 しかしここのところ体調が悪かったり頭の働きがよくないという自覚があった。 改善するためには現状を変える必要があった。 そこで、睡眠時間を1時間増やしてみるという英断をしたのだ。

すると、次の日のパフォーマンスが上がった。 定性的な話になるが今までよりも頭がよく動き、疲れにくい感じがした。 これは効果ありだと思い、最近は睡眠時間7時間を意識して生活している。 疲れがひどい日は8時間くらい睡眠時間を確保できるとよりよい。 とくに休日にはしっかり寝ておくと次の週に疲れを引き継がないで済む。 自明な行動から非自明な結果が得られたといえるかもしれない。

結局のところ人間も動物なので、生き物としてきちんと動作するように普段から調整しておかないといけない。 逆に、あまり睡眠時間をとらずにパフォーマンスを出している人々の体はどのような仕組みになっているのか、疑問に思えてきた。 休息の取り方が違うのか、疲れやすさが違うのか、謎は深まるばかりである。


2025/1/22 風呂に入ってもとくに閃かなかった話

誰しも考えごとをすることはある。 たとえそれが大事なことであっても、しょうもないことであっても、思考は人の大事な営みだと思う。 私は普段からよく考えごとをしがちで、何か作業をしながら頭の中では別のことを考えることがある。 皿洗いや掃除といった単純作業と考えごとは相性がいい。 とくに相性がいいのは風呂だろう。

風呂に入るときは基本的にルーティンワークで頭を洗ったり体を洗ったりするわけで、 とくに脳みそのメモリを消費しない。余った分のリソースで存分に考えごとをすることができる。 しかも湯船につかるときには何もしないことになる。 気持ちもリラックスできているのでいいアイデアが浮かぶかもしれない。

ところでアルキメデスは風呂で問題解決のアイデアを思い付いたというが、 実際はそんなにドラマティックな出来事はなかなか起こらない。 よく風呂で考えごとをするが、問題を改善できそうなアイデアや斬新な発想が出てくることは極めてまれである。 風呂に入るのは夜だが、たいていは今日あった出来事を反芻したりして、プチ反省会で終わるのが常だ。 もしいいアイデアを思い付いたとしても裸のまま走り出したりせず、ゆっくり出るのがいいだろう(冬場のヒートショックは怖い)。

風呂は考えごとをする場として素晴らしいが、実は物理学を学べる場としても優秀である。 ちょうどアルキメデスが発見したように、湯を張った浴槽につかると自分の体積と同じだけ水位が上がることを確認できる。 浮力がどれだけ働いているか、ということは測定してみないといけないが、 どのくらい水位が上昇したかがわかれば、およその浮力も見積もることができる。

また、水という物質はそれ自体が興味深い。 ほかの物質とあまり相互作用せず安定であり、固体から液体、気体へと相転移をする。 温められた水は水蒸気として浴槽から空中に飛び出し、浴室の壁に当たると冷やされて再び液体に戻る。 もし入浴剤を入れるなら、水が水溶液になる瞬間を観測することができる。 静かな水面に振動を加えて波が伝わっていく様子も見ることができるだろう。 音や地震など、波が関係する物理現象はたくさんあるが、 水面波は目で見ることができるので、もっとも物理の勉強になるのではないかと思う。 風呂に入り終わって、水を抜くために浴槽の栓を抜くと出口のところに渦ができる。 渦は海や大気中などでも見られる現象であり、流体として興味深い。

このように、風呂にはおもしろい物理がたくさん詰まっている。 こういった身近な物理のイメージを頭の中に蓄積しておくことで、物理の勉強がはかどる気がする。 とくにおもしろいことは閃かなかったが、流体の運動がおもしろかったのでよしとしよう。


2025/1/5 季節感を得るには

正月だが、クリスマス同様に部屋にこもって本を読んだり作業をしていると季節感というものがなくなってくる。 正月っぽいことをしようとして初詣には行ったが、帰ってくるとまたいつもの日常に戻ってしまう。 単発の季節イベントでは、この季節欠乏症には効果が薄いらしい。

いっそのこと、門松でも買ってきて家の前に置いてみたらいいかもしれない。 出来れば安く済ませたいので玄関における小さな奴でもいいかも、などと考え始めていたが、 そんなことをうだうだと考えているともう三が日は過ぎてしまっていた。 もう正月の飾りは片付け始める時期ではなかろうか。 相変わらず季節の移り変わりは早いものだなぁ、と嘆く正月になりそうだ。

ふとキーボードをたたく指がひりひりするなと思ったら、指にミミズ腫れのような傷があるのに気付く。 そういえば、朝ご飯に餅を焼こうとしてやけどをしたのだった。 オーブントースターで餅を焼いていたのだが、取り出すときに内部の暑い部分に指が触れてしまったようだった。 一瞬のことだったが、寝ぼけていた頭を覚ますには十分なほど熱かった。 なんともみっともない話だ。 などと考えていたが、実はこれはこれで正月っぽいのでないだろうか。

ちょっとググったところ餅の歴史は相当古いらしく、稲作が始まった縄文時代や弥生時代から食されているそうである(お餅の歴史)。また、餅を正月に飾る文化は平安時代からあったそうである(おもちと日本人)。 ということは、餅を焼いて食べようとしてやけどした人もたくさんいたに違いない。 とるに足らない事象も多くの人がくり返せば文化的に意味のあるものになるのが人間の歴史である。 そう考えると、このやけどは季節的に趣深いやけどといえるだろう。 しかも単発のイベントと違って長く季節感を供給してくれる。

ヒリヒリする指を冷水で冷やしながら、 今年はまあまあ正月っぽいなと戯言を考えるなどした。


2024/12/29 寒い時期は体調崩しがち

毎年のことだが、12月から2月にかけての寒い時期は体調崩しがちだ。 これは個人的なことだが、どうやら世間一般でも寒い時期は体調管理が難しい時期のようで 普段ははやらない風邪が流行ったりインフルエンザで仕事を休む人が出たりする。 寒いと体の免疫機能が下がりやすくなるのを何とかしたい。 さらに気温が下がると空気が乾燥して喉を傷めやすかったりするのもよくない。

何とか対策をしようとして暖房と加湿器を併用したりするわけだが、 そうすると電気代が高くなって別の不安が出てくる。 何かと物価高の現代であるが、例にもれずに電気代も高騰しているので 少し暖房を使っただけでも電気代の伸びが大きいのだ。

そんなことを考えながら過ごしていると、気疲れからか今年も体調を崩した。 結論から言ってシンプルに風邪を引いた。 世間がコロナだインフルだと騒いでいるよそで、普通の風邪をひいたのだった。 症状が比較的軽いので大事にならずに済んだのはよかったが、なんとも拍子抜けしたものだ。

しかし普通の風邪といっても普通なりにしんどい。 のどの違和感から始まって、のどの腫れと痛み、鼻水、咳、発熱(37度)が2、3日続いた。 こういう体調不良のときは早く治したいので寝て過ごすことが多いわけだが、単純にそれだけでなく、 何か他のことをしたくても何もできない。

よくある話で、 「体調不良で寝込んでいるときにすることがないから考え事をしていたら興味深いことに気づいた」 みたいなものがよくあるが、 本当にそんなことがあり得るのだろうかと思う。 体調を崩して寝込むたびに思う。 何もできないから体調不良なのであって、 考え事ができるならそれは結構元気であるのではないか。 見栄を張って、カッコをつけてはいないだろうか。

少し頑張って、布団の中で物理のことでも考えてみようとしてみる。 しかし、熱で頭が鈍っているせいか、うまく考えがまとまらない。 さらに続けていると、なんだか熱が上がってきそうな心地の悪さがあって、 後のことを考えると、これ以上続けるのはまずいような気分になってくる。 そうして、考えるのをやめ、寝てしまうのが体調不良のルーティンになっている。

回復してから振り返ってみると、やっぱり健康が一番だなぁ、とかありふれたことを思う。 体調不良の具合にもよるが、体調を崩しながら考え事をするよりも、 しっかり治してから机に向かうほうが自分には合っているのだろう。


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