日常あれこれ

物理に限らず、いろんなことを綴るページ。 個人の妄想、妄言が含まれるかもしれませんが、あしからず。 年ごとにまとめてみました。

最近の話

2024/5/19 計算しながら物理の本を読む

物理や数学の本を読むときは実際に自分で計算したり、証明をやったりして書いてある内容を確かめながら進めるのがいい。 理解度が違う。

自分で本の内容を確かめることができれば人にも説明できるようになる。 ものを理解したかどうかをチェックする指標のの1つとして、他の人に説明できること、がある。 本に書いてある内容をただ読むだけよりも、実際に自分で体験するほうが鮮明だ。 よりリアルだ。

実体験は記憶にも残りやすいものだ。 自分事としてとらえることができる。 そうすれば、必然的にちゃんと理解したいと思うようになる。 モチベーションの維持にもつながる。 理解するために計算をして、モチベーションも上がるのでいいサイクルが回るのだ。

ところで、計算するもの大事だが、それだけでは書いてある内容を読み取ることができない。 著者がなぜその説明の仕方をしようと思っているのか、というところまで推し量ってはじめて全体像が見えてくる。 説明されている事柄だけではなくて、今は全体のうちのどこを説明していて、 その順序でいく理由や著者の意図するところは何か、といったバックグラウンドを把握できれば理解はぐっと深まる。

そのためには目先の計算にとらわれすぎてもいけない。 何のための計算なのか、を意識しながら読み進めるようにする。 計算は物理を理解するための1つの方法に過ぎないからだ。 理解したい物理があって、そのために示したいことがある。 それを示すための計算がある。 あくまで物理の理解が目的であるべきだ。

場の量子論とかだと、どうしても計算量が多くなるので今自分が何をやっているのか見失いがちだが、 定期的に目的を再確認しておくことが大事だと思う。


2024/5/2 学び続けることの意義

学生でなくなっても、生きていくうえで、学び続けることは大切なことだと思う。 むしろ学びを深め続けていくことで人生が豊かになると信じている(信じるというのは科学的な立場とは反対だが、ここは目をつむっておこう)。

学問を趣味として続けていくのもおもしろい。 個人的には物理や数学を趣味として勉強し続けていきたいと思って、本を読んでみたりしている。 とくに場の量子論は学生のころからやり残した感があるので、ひととおり理解しておきたい。 その過程で得られた知見はこのサイトにまとめていこうと考えている。

場の量子論は実験結果をうまく再現するという点でかなりうまくいっているが、まだ発展途上の理論でもある。 そのために初学者にとって難しく感じるところがあったりする。 また、自由度の多い系を扱うことになるので、計算がどうしても煩雑になることが多い。 そういったところをできるだけ簡潔にまとめてわかりやすくしておきたい。 後で自分が読み返したときに、満足できる形で残しておきたいと思う。

また、学ぶのは学問だけではなく、生活の知恵や仕事のやり方、人とのかかわり方など、いくらでもある。 とくに、最近の世の中は何かと変化が激しい時代に突入しているので、 その変化についていくためには学び続けることが必要である。 変化についていく、といってもうつろいゆくもの全部に首を突っ込んで右往左往するわけではなく、 必要最低限のことを知っておくだけでもいいと思う。 相手を知っていれば適切な対処もできるかもしれないのだ。

たとえば最近の大きな変化といえば生成AIの進歩が挙げられるだろう。 ほんの数年前まではAIが自然な文章でチャットしたり、絵をかいたりするサービスが大衆化することは想像できなかった。 それが一気に広がり、AIとの付き合い方や新しい倫理観などを求められるようになった。 こういった変化が今後も続いていくだろうし、激しくなっていくのだと思う。 そのときに社会で生きる人として生き残っていくためには学び続け、適応していくことが必要である。

さらには、学び続けることはただ必要というだけでなく、それ自体楽しい。 というか、楽しいものであるべきだと思う。 好奇心のままに気になることを学んでそれが実際の生活や仕事に生きるなら一石二鳥だ。 楽しいから趣味としても成り立つ。 何かを知ることに喜びを見つけられるように心がけて生活していきたいものである。


2024/4/16 不器用すぎて人と話せない

他の人が話しているのを見ていると、自分だけうまく話せていないような感覚になることがある。 自分が話すときの間や空気感、抑揚など、話の内容だけでなく話の仕方も少し違う気がする。

不器用すぎて人とうまく話せない。 そんな感覚がある。 不器用といっても手先を動かすのが下手という意味ではない。 むしろプラモデルを作ったりするのはそこまで苦ではないほうだ。 ここでいう不器用というのは人とのコミュニケーションでの不器用さである。

仕事の話や、議論などはある程度できるが、興味のないことだと言葉が出てこなくなる。 とくに雑談などがしづらい。 基本的に自分語りが得意なほうではない。 コミュニケーションの記事や本を読むと内向的な人は聞き役に徹するのが良いということをよく見るので、 聞き役に回ってみるが、ウマい感想も言えないので盛り上がりに欠ける。 それに、苦手とはいっても相手ばかりに話させておくのは幾ばくかの申し訳なさも感じてしまう。

自然に雑談ができる人は、なんだか人間らしい、社会人らしいという風に思える(自分だけ?)。 やるべきことや仕事があると、話す余裕がなくなってしまう。 目の前の作業をこなすだけの機械になってしまう。 仕事なら、それはそれでいいことなのかもしれないが。

いざ雑談になったとしても自分から話すことが難しい。 話を振られて話し始めることが多い。 とくに3人以上の会話になると難易度が上がる気がする。 話し始めるタイミングがわからなくなる。

何とか頑張って話し始めると人が話すタイミングにかぶったりする。 人の話の内容を聞いて頭で処理し、自分の考えを適切なタイミングで伝える。。。 会話という単純そうなことでも意外と高度な情報のやり取りが行われているのかもしれない。 こんなことを考えているから言葉に詰まったりするのだろうか。

かえって何も考えずにその場の感覚に身を任せるのがいいのか。。。

そうはいっても苦手なことをうまくやろうとするのは疲れる。 社会で生活していく限り人と会話することは多いし、雑談することもあるだろう。 避けては通れないなら無理せず自分のできる範囲でやっていくのがいい。


2024/4/1 なぜ同じ分野の本を何冊も買うのか

SNS上で、なぜ量子力学の本を何冊も買うのか理解できない、みたいなみたいな投稿を見たことがある。 確かに同じ分野の本を何冊も買うのは一見するとムダに思えるかもしれない。

しかし何かの分野を専門的に勉強したことがある人ならそうは思わないだろう。 たった1冊の本で1つの分野を学びきることなど不可能であることを知っているはずである。

1冊の本で扱える範囲には限界がある。 たとえば量子力学の本を1つとっても著者によってかなりの特色があり、目指したいゴールにもかなり幅がある。 極端な話、朝永振一郎の量子力学とJ.J.Sakuraiの量子力学を見比べてみると、進め方や扱っている内容、雰囲気もかなり違うだろう。

前者は量子力学の成り立ちについて歴史的な背景を交えながら解説しているが、後者は現代的な量子力学の教科書といった具合だ。 ただ、どちらかが優れているというわけではなく、どちらも良書であると思う。 また、入門書と進んだ勉強がしたい人向けの本では内容的なレベルも扱っている事柄も違うのが普通だ。

そうなると何でもかんでも書けるわけではない。 扱うトピックは自然としぼられてくる。 読者が必要とするものが書かれているかどうかは自明ではない。 読者がその時に必要な情報に応じて本を選択するということになる。

結果的に、本棚に同じ分野の本が増えていくというわけだ。 むしろ本棚にある同じ分野の本の数で、その人がどれだけその分野に関心があるかを図ることができる。

だからまた場の量子論の本を買うことはけしてムダではないのだ。 そう言い聞かせながら今日も本をポチる。


2024/3/20 理論物理をやるために必要なこと

物理学は高度に細分化されいていて、実験と理論もしっかり分かれている。 なので物理学をやるひとには実験屋と理論屋がいる。

私は修士と博士を通して理論物理学の研究をしていたので、後者について必要なものは何かを紹介してみる。

理論屋は実験をしないので測定器などの大掛かりな機材は不要である。 道具としては紙とペン、それからシミュレーションを行うためのPCがあれば充分である。 あとは1つの物事を考え続ける体力があれば何とかなる。

研究はうまくいかないことが多い。思いついたアイデアの9割は徒労に終わることも珍しくない。 でも残りの1割でうまくいくことがある。 それをつかむためには考え続ける体力が必要だと思う。 上手くいかなかったときにそこで考えることをやめてしまっては研究が止まってしまうからだ。

そして理論物理は計算やシミュレーションが主な作業になってくるので、 実際に体を動かして解決するというよりかは 頭の中で視点を切り替えてみたり試行錯誤してみたりといった解決法を取ることが多い。 つまりは実験家と比べて思考を続ける力がとくに重要である。

実際、優れた研究者は頭の回転が速いだけではなく、あきらめずに考え続けられるような気がする。 極端な例でいうとアインシュタインは特殊相対論を発表してから、さらに考え続け、慣性系に依存しない一般相対性理論に至った。 その道中では数学的な困難もあったりして紆余曲折あったらしい。 自分が解くべき問題を考え続けることが生んだ成果である。

本の計算を追うときなどでも自分が重要だと思ったところについてはあきらめずに考え抜く癖をつけたいものだ。


2024/3/7 積読のすすめ

本は一期一会だ。

書店やECサイトで見かけたときにいいなと思った本はできるだけその場で買うようにしている。 もしくはタイトルを控えておき、後日買う。

いつか買おうと思っていると気づいたら絶版で手に入らないか、べらぼうに値上がりして買いにくくなる。 なぜかいい本ほど絶版になったりする。 経験則だが、とくに専門書は絶版になりやすいので注意が必要だ。

買った本は必ずしもすぐ読まなくてもいいし、すべて読み通さなくてもいい。 自分が気になるところを何回も読むだけでもいいと思っている。

そういう買い方とをしているので、必然的に積読が増える。 でも後悔はしていない。

後で気になった時にすぐに手に取ることができる喜びのほうが大きい。 メリットが大きいと感じる。

本に書いてあることがすべて自分にとって有益である場合というのは少ない。 たまに、これは自分のために書かれた本だ、というようなベストマッチがあることもあるが、稀なことである。 それを待っていたらいつまでたってもいい本には出合えない。 気になるものは読んでみればいい。

なので本に期待することとしては、1つでもその時の自分が感化される情報があるかどうか、だと思う。 どれだけ短くても、たとえその本の中の1文だったとしても自分にとって興味を惹かれる内容なら買う価値がある。

とはいえ、本をためすぎて家の床を抜いたりしないように注意が必要である。


2024/2/26 わかっているフリが上手い人ほど社会でうまくいく?

何か物事に対して、わかっているフリが上手い人のほうが社会で成功している印象がある。

会社では常に利益と効率が求められるので、合理的に動く必要がある。 そうなると、人に自分のした仕事などを説明する場面が出てくる。 そんなとき、自分がやったことやその周辺について、すべてわかっているかのように振舞える人が 信頼を得て、出世していくのではないだろうか。

確実な根拠があるわけではないが、そんな印象を持った。 極端な場合でいうと、会社の社長などは社員の業務の細かい内容などを知らなくても すべて把握しているようにふるまうのがうまいと思う。

ところで、アカデミックだと知ったかぶりは極悪行為である。 知らないことを隠すことは学ぶことを放棄することに等しい。 自分が知らないことを認めることが学ぶことの一歩である。 このあたりのギャップも研究者が社会に出るときの壁の1つになっているかもしれない。

一般的な人は他の人からものを教えてもらうとき、 できるだけそのことについて詳しい人から教えてほしいと思う。 それはどこから判断するかというと、その人の普段の仕事や経歴、説明の仕方であるだろう。

とくに説明の仕方について、はっきりとした言い方をせずに回りくどい説明をされると、 その人の理解度について疑問を持ったりする。 そうなると余計に説明が頭に入ってこなくなったりして困る。

一方で、個人的には物事について知れば知るほど簡潔な説明が難しくなっていくと思う。 そのことに関係する多くの事柄の中で何が重要なのかを整理したうえで、 相手の知識量に合わせたレベルで説明しないといけない。

もともとそのことについて、そこまで深く知らなければ上記の理由から、説明方法の選択肢が多くないはずなので 手持ちのカードを切るしかなく、割といい加減な対応ができる。 意外とそれで充分だったりする。

知識が増えてくると、どの方法で、どの言葉を使って説明すればいいのかわからなくなる。 また、わかっていることが増えてくるということは何がわからないかもわかってくるということで、 自分が知っていることは氷山の一角に過ぎないことを自覚しだす。 そうなると必然的に謙虚な物言いになって、回りくどい表現を使ったりしてしまいがちである。

でもこれって説明が下手なことの言い訳だろうか。 頭の中で知識が整理できていないだけかもしれない。 というか、人に説明する準備ができていないのだと思う。

なので何かを学ぶときは、人に説明することを頭に入れながら学ぶといいだろう。 できれば3通りの方法で説明できるようにしておくといい。 たとえば専門用語を使わない方法、専門用語を使って簡潔に説明する方法、ほかの分野との関係を示しつつ説明する方法などがいい。

こんなふうに用意しておけば、どんな場面でもうまく説明できるに違いない。 博士人材が社会で活躍できる機会も増えるかもしれない。


2024/2/11 勉強のストレスは勉強で解消できる

現代はとくに変化が激しい時代なので、社会で生き残っていくためには常に努力が必要だ。 努力の方法の1つに勉強がある。

仕事や学問において、自分の能力を上げたいときや新しい知識を身に着けたいときに勉強をする人は多いだろう。 また、学生であれば勉強しなければならない場面が多いと思う。 新しいことを学ぶことは刺激や楽しさもあるけれども、苦しみを伴うこともある。 自分が思い描いたように進まなかったり、勉強が結果につながらないこともあるだろう。

そういうときはストレスがたまる。 これ自体は自然なことだ。 人は自分の理想と目の前の現実のギャップにストレスを感じる。 問題なのはストレスが溜まって健康を損なうことだ。

勉強しなければならないことはわかっているが、ストレスが溜まって集中力が下がったり 体調が悪くなったりして続けられない。そんな経験をしたことがある人も多いのではないか。

そんなときはいったん休憩して心身をリフレッシュさせることが必要だ。 この時にリフレッシュ法としてオススメしたいのが勉強によるストレス解消法である。

勉強でストレスが溜まっているのに何を言っているのか、と思われるかもしれない。 しかし勉強でたまったストレスを勉強にぶつけて解消させれば、勉強し続けられる。 勉強し続けられるとより深く学べる。 より成長できるというものだ。

具体的な方法としては今自分が取り組んでいるものとは違う分野の勉強をすることで リフレッシュを図る。 たとえば受験勉強の場合は科目が複数あるはずだ(国語、英語、数学、化学、物理学、生物学、地理、歴史など)。 自分が国語の勉強していたとすると、数学や物理などのできるだけ違う科目に取り組むようにする。

また別の例を考えてみるとプログラミングの勉強をしていた場合に、 資産運用の勉強や自己啓発本を読むなどしてみる。

できるだけ違う分野に手を出すのがいい。 そのほうが新しい刺激が入るのでリフレッシュしやすい。

この方法の良いところは、リフレッシュのために選んだ勉強先でまた新しい知見が得られて、 もとの勉強でも生かせることがあることである。 相乗効果が期待できる。

たとえば、上の例ではプログラミングでPythonの勉強をしていたとする。 その勉強に疲れて資産運用の勉強をしたとする。 資産運用の結果をPythonで可視化してみたり、データ分析から意味のある予測ができるかもしれない。 それによってPythonの知見も広がる。 こんな具合に一石二鳥の効果が期待できる。


2024/1/31 年度末は体調崩しがち

毎年なぜだか1, 2, 3月に体調を崩すことが多い。 病気をしなかったとしても何となく体がだるかったり、頭が重かったり、気持ちが落ち込んだりして調子が上がらないことが多い。

同じような症状の人はいるのだろうか。 20代前半のときはそんなこともなかったのに後半になってから年度末の時期にしんどくなるようになったのだ。

体調が悪くなる原因について考えてみようかと思う。 原因がわかれば対策もできるというもの。 同じ理由で体調が悪い人にも役に立つかもしれない。

まず考えてみた。 1, 2月というのは日本では1年の中でもっとも寒い時期である。 日によっては氷点下の気温になることもあるだろう。

気温が下がると体も冷えやすくなる。 体が冷えると免疫力が下がって、いろんな感染症にかかりやすくなる。 ということで体調を崩しやすい時期だといえる。

続く3月では気温が上がってくることが多いが、 季節の変わり目の時期なので気温や気圧が変化しやすいのが特徴だと思う。 気温と気圧の変化が激しいと自律神経が乱れやすくなって、ストレスや疲れがたまりやすくなる。 そうなるとやっぱり体の免疫力が下がって体調を崩すことにつながる。

すぐ思いつくのはこのくらいだろうか。 改めて考えてみると、気温が下がりやすいことと天候の変化が激しい季節であることが 体調に影響する原因になりそうだ。

対策としては、意識して体を冷やさない工夫を取ることがあげられるだろう。 たとえば、水分補給は温かい飲み物でとるようにして、湯船に毎日つかり、 服は体を冷やさない冬用のものを着るのがいい。

こんなことは当たり前のことかもしれないが、 生活が忙しくなってくると普通のことができなくなってくるものなので 肝に銘じておくべきだと思う。

気圧の変化はどうしようもない部分だが、睡眠時間を確保しつつ規則正しい生活を心掛けて 自律神経を整えるのが近道だろう。 結局はいつもの生活を他の季節以上にきちんと守るように心がけるのが大事だ。


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