最近の話
2024/11/21 AI時代のモチベーション維持について
勉強を続けていくうえで、モチベーションを維持することは大切である。 それは日々痛感している。 計画を立てたときはやる気に満ち溢れていても、数か月たつと同じ情熱で机に向かうことは難しい。
最近はそれに加えて時代の流れもモチベーションの維持に影響しているのではないかと思うことがある。 数十年前よりも現代のほうがモチベーションを維持するのが困難なのではないだろうか。
現代は勉強以外の娯楽がたくさんある。 また、IT技術が発達し、世の中がどんどん便利になってきている。 世の中が便利で、個人が十分に満たされてしまえば、 現状よりも自己を向上させてより良い人生を手に入れようとか、 そのために勉強しようといった動機を得にくいのではなかろうか。 そんなふうに思うことがある。
とくに近年はAIの発展がめざましい。 毎日のように新しいAIサービスがリリースされている。 そしてそれらは何でもできるのではないかというほどに便利だ。
また、文章や絵を描くといったことまでAIの得意分野になりつつある。 あえて人間がそれらの行為をすることに特別の価値を見出していかないといけないのかもしれない。 たとえば、AIが書けない文章書くことが新しい価値になるといえるだろうか。
ただ、もしかするとそれは今までと変わらない面もあるかもしれない。 AIが書けない文章というのは、 構成が緻密であるとか、読み手にとって素晴らしい感動を与えられるとか、 何か新しい知見を提供してくれるといったことだと思う(それがどういう文章であるかにもよる)。
それはAIがなくても、もともと素晴らしい文章といえるはずだ。 現代では素晴らしい文章が書けない人でもAIを使ってそこそこの文章は書けるようになったといえる。 しかしそれはもともと文章が書けない多くの人でも書けるということなので、付加価値としては弱い。
AIが今よりもっと進んで人間の創作物よりも人間を感動させられるようにならない限り 状況はあまり変わっていないようにも見える。 つまり、できない人はできないし、できる人はできる。 その溝は狭まってはいない。
現状では、まだ人間が勉強する価値はありそうだ。 もしAIが人間の知的活動のすべてを上回ってしまったときは今のようにはいかないかもしれない。 そのときには人間のアイデンティティが問われるだろう。 個人的にはそんなことにならないほうが人生を楽しめそうな気がする。
2024/10/30 自分にとって休むとは何か
改めて、自分にとって休むとは何かを考えたい。 メンタル的に疲れたときに何が自分にとっての休息になるのだろうか。 そのためにはまず、「休む」という行動を定義しなければいけない。
「休む」という言葉の意味を調べると、仕事などを欠勤することや寝ることなどが出てくるが、 本質的には「仕事・活動を中断して、心身を楽にする。」というのがメインの意味になっていそうだ。 とくに心身を楽にする、というあたりがポイントのように思う。 疲れているから、心身を楽にしたいと考えて休もうという発想になるのだ。
「心身を楽にすること」を休むことのメインの意味に据えると、活動を中断することが必ずしも休むということではないと考えられる。 活動を中断するということは、突き詰めると寝ることや、ぼーっとすること、瞑想することなどに行き着きそうだが、 これらのことが休むということと同値ではないのだろう。
それではじぶんにとって「心身を楽にすること」は何だろうか。 「楽にすること」は、楽しいという感情を想起させたり、リラックスしていて苦しみがない状態にすることであると考えてみる。 自分にとって、「心身」について楽しいと感じたり、リラックスできる状況を思い浮かべればいい。
そうやって考えたときに思いつくのは、寝ること、音楽を聴くこと、本を読むことである。 とくに本を読むことは、今自分の頭の中にある考えと違う考えに出会うことだといえる。 悩んだり疲れたりしたときは経験的に、1つのことについて考えすぎたりすることが多い。 そんなときに別のテーマについての話に触れると、頭がリフレッシュされるので楽しいと感じたりする。
ただ、本を読むという行為は他の2つに比べると能動的な行動なので、あまりにつかれたときにはできないかもしれない。 したがって、疲れすぎているときは「寝る―>読書」という流れがいいだろう。 今度から疲れたときは少し寝てから本を読んで、回復するかどうか試してみよう。
2024/10/29 秋とか春は体調崩しがち
毎年思うことだが、秋とか春にはよく体調を崩す。 気温と気圧が不安定で、朝晩と昼間で体感温度の差が大きい。 体調管理が難しい時期だと思う。
そういう時期はメンタル的にもなんだか疲れたりする。 同じ事ばかり考えてしまったり、逆に何も考えられなくなって集中力が落ちてしまったりする。 まるで自分だけが調子悪いように感じてしまう。 そうすると余計に焦ったりしてよくない。
しかし周りを見ると、結構同じように調子悪そうな人は多い。 自分だけではないと思うと少し気が楽になったりならなったりする(何を言っているのか)。 いずれにせよ、体調が悪いのは自分の問題であって、だれかれと比べるものではないので焦る必要ない。 自分と向き合って、今の自分に何が足りていないのか何をすべきなのかを考えてみることのほうが建設的だ。 今は何も考えられないなら、考えられるようになるまで休めばいいのだ。
ということで、今日は思考力が低下しているみたいなので、あんまり無理せず休むことにした。 だが、何をすれば休むことになるのかよくわからない。 そもそも休むといいながら日記を書いてしまっている。 日記を書くことで頭が整理されて結果的に休まるならいいのだが。。。
自分にとって休むとは何かを考えたくなってくる。 しかし疲れているので考えまとまらない、という無限ループに入ってしまう。 現代人にとっては休むこともままならないらしい。
何をすれば休息になるのかがわからないという人もいるのかもしれない。 単純に寝れば休みになるのか。しかし寝すぎると逆に体調が悪くなる。 早寝早起きして定期的な運動習慣をもち、栄養バランスを考えた食事を三食とるのがいいのかもしれないが、 もう少し手っ取り早い方法があるとありがたい。 何しろこっちは疲れていて、すぐに休みたいからだ。
考えがまとまらないようだし、ここはひとまず寝て、 自分にとっての休息が何かという問題は改めて別日に考えることにしよう。
2024/10/14 時間が過ぎるのが早すぎる
『「時間が過ぎるのが早い」、「先週の日曜日に買い物に行ったのが昨日のことのようだ」、「あっという間に夜になっている」』、 どれも最近よく思うことだ。 子供のころに比べて、大人になってからは時間の流れが速くなったように感じる。 日々はいつの間にか過ぎていくし、さっき淹れたコーヒーはもう冷めている。
一様に同じ時間を生きてきたとは思えないほどに体感時間が違うように思う。 ときどき、これはなぜなのだろうかと考える。 子供と大人の生活で違うところを思い返してみる。 具体的には小学校のころと大人の生活で違いを考えてみる。
子供のころは新しい体験が毎日のようにあって、新鮮な気持ちで生活できたからかもしれない。 大人になるにつれ、通年のイベントは何度も繰り返して儀礼的になっていくし、 新しい体験というのも意識的に行動しないと得られなくなっていく。
または、子供の頃よりやらなければいけない作業が増えたからかもしれない。 たいていの大人は仕事をして生活をしていて、休みの日は疲れて寝ているか、たまった家事をやっている。 仕事は子供が通う学校と比べて拘束時間もタスクの量も多い。 経験的なことだが、人は何かに集中していると時間を忘れることがある。 日々、目の前のタスクに追われていると体感時間が短くなるのかもしれない。
別の視点でいえば、大人になるにつれて子供のころよりも代謝が落ちることが体感時間に関係するかもしれない。 大人になると、昔よりも傷の直りが遅くなったり、1晩寝ただけでは疲れが取れなかったりすることがよくある。 代謝が落ちて体が疲れやすくなると、てきぱき動けなくなってきて自分の活動が世の中と比べて相対的に遅くなってしまうのかもしれない。
メンタル的なところでいえば、大人のほうが未来を考えることよりも過去のことを振り返って考え事をすることが多くなるかもしれない。 子供のころは明日はどこに誰と遊びに行こうかと考えていたのが、 最近では昨日の仕事のことを考えている時間が増えたように感じる。 過去にとらわれるほど今を大事に考えられなくなる気もする。 個人の感覚的なところなのでソースはないが、なんとなくそんな風に思う。
ここで挙げたことが正しいと仮定すると、 体感時間を長くするにはそれぞれの原因に対して適切な対策を打てばいいはずだ。 つまり、できるだけ毎日の中で新しい発見や体験をして、タスクから解放されてのんびりする時間も大切にしつつ、 代謝を上げるために運動を継続して行う。さらに未来の予定や現在の生活を大事にして生きる。 改めて言葉にしてみると、なかなか健康的な生活だ。
もしこれらを実践できたら、流れていく時間も少しは取り戻せるかもしれない。
2024/9/16 漠然とした問題は具体的な問題に落とし込んでから取り組む
世の中にある問題の多くは物理や数学の問題ほど具体的でないことが多い。 逆に問題が具体的であれば、その解決策も考えやすいので、できるだけ取り組む問題を具体的にしていきたいものである。 そもそも問題として認識されていないこともある。 そういう隠れた問題は、現状では認識すらされていないのであって、例を挙げるのは難しいが、 最近起こりつつある問題を無理やり考えてみる。 たとえば、SNSが普及したことで大勢の人が不特定多数の人に対して情報発信を行えるようになったことで、 流れてくる情報の確かさや質みたいなものが低下している問題を考えてみる。
別に自分が行っている情報発信も質が高いかと言われればそうでもないので、この問題に拍車をかけてしまっているかもしれない。 ところで、こういう問題は最初はもっと漠然とした感覚から発生するものであって、 上にあげた表現であってもすでに具体化されているように思う。 最初の感覚としては、インターネット検索で閲覧できる記事やSNS上で議論されている内容をみたときに、 嘘が多かったり不確かな憶測にもとづいた話になっていたりして、期待する結果を得られなかったときの不満感ではないだろうか。
そこから1つ仮説を立てて、SNSやWeb記事をだれでも投稿できる環境になったから投稿数が増え、相対的に記事の質が低下した、と考えたとする。 その仮説が本当かどうかをSNS普及前後の記事投稿数と記事内容の質についてデータ収集と分析を行う必要がある(しかもその記事の質が高いのかどうかを評価するための評価指標も事前に考える必要がある)。 そういった検証を行った結果、SNSの普及が記事の質に影響していれば、先の問題を問題として提起することができる。 そういう具体化のための作業が行われているべきである。 残念ながらこの話は思い付きで書いているので、そこまでの検証がされているかどうかは確認できておらず、 先ほどの書き方では仮説と提起したい問題が混ざってしまっている。
きちんと問題を提起するには何が問題で何が仮説なのかを分けておくべきである。 この話でいえば、問題にするべきことはネット記事の質の低下の原因が不明であることであるだろう。 実際に調査をする人は単なる興味で調べることもあるが、何か仕事と関係しているかもしれない。 たとえば、この問題を考えているのはWebライターで生計を立てている人で、 自分が書いている記事を周りの記事と差別化するためにどうすればいいかを考えているのかもしれない。 そのために、最近のネット記事の質低下が起きているのは本当なのか、起きているとすれば、 自分が記事を書くときにどこまでの質を担保すれば差別化できるのかを調べたいと思ったとする。
そういう動機で最初の問題を考えているとすると、問題の背景が少しクリアになってくる。 自分の書いている記事と他の記事の質を比べるための評価指標の導入がキモになるかもしれない。 どんな人間が何のためにどんな問題を解決したいのかがわかれば、解決策を具体的に考えやすい。
ここまでいろいろ想像しながら書いてきて思ったが、問題を具体化するということは、 問題が含んでいる要素を細分化して本当に明らかにすべき部分を特定することと、その問題の周辺知識を明らかにすることだと考えられる。 本当に明らかにすべき部分を特定することは、見通しをよくして効率よく問題を解決することにつながる。 また、問題の周辺知識を調べることは、問題の解決策を考えるときの引き出しの多さに影響する。
実際に世の中にある問題はもっと複雑だが、 だからこそ本質的な部分を明らかにして、できるだけシンプルに考える癖をつけるのがいいはずだ。
2024/8/18 語彙は豊富なほうがいい
物理をやっていると、できるだけ少ない仮定で多くの結果を導けるほうが美しい、 みたいな考え方が頭にしみついてくる。 個人的には、この考え方を日常で使う言葉にも適用して、 少ない言葉で多くの会話ができることがいいと思っていた。 たとえば、良い結果に対する感想も悪い結果に対する感想も「ヤバい」という言葉で表せる。 まったく逆の場合なのに同じ言葉が使えるのだ。 これは便利だと思っていた。
しかし、客観的に「ヤバい」を多用している人を見てみると、 なんだか品がないような、知性が感じられないような印象を受けることに気づいた。 これまで生きてきて、もっと早く気付いてもよさそうだが、 今更気づいたのだった。
ここで不思議に思った。 物理だと出発時点で出てくる文字や概念が少ないほうがいいと思うのに、 日常で使う言葉については良いと思えないのはなぜなのか。
これは、言葉を話者が伝えたいことを聞き手に伝えるための道具や手段の1つとして考えると 納得のいく説明ができるかもしれないと考えた。 ある対象について物理の問題を考えるときに1通りの方法で解いたり記述できる場合と、 2通りの方法で同じ結果が出せる状況があったとすると、後者のほうが価値がある。 なぜなら、1つの対象に対して2つの視点を持てるからで、 他の物理系との関係を調べたいときなどに役に立つからである。 複数の視点を持っているということは、問題を考えるときに使える引き出しの多さが多いことになる。 たとえば、Xという対象に対して、方法Aと方法Bを使って記述することができ、 Yという対象では方法Aが適用できないが方法Bが適用できるという感じになったとする。 このとき方法Bを通して2つの物理的対象XとYを関係づけることができる。
これと同じように、言葉を表現の道具としてみると、 同じ対象を表現するための方法を多く持っているということは それだけいろんな視点から1つのものを語れるということで、 相手にとってわかりやすい説明ができる可能性が高まる。 コミュニケーションの目的を話者の意図をできるだけ正確に聞き手に伝えることだとすると、 言葉をたくさん知っていることはコミュニケーションにとって有利なんだろうと考えられる。
そういうことを経験的な体験と結び付けて品があるとか知性を感じるという風に受け取るのかもしれない。 語彙が豊富な人は説明もうまいという経験則が自分の中にもあって、 同じように言葉の表現が多い人の話を聞くと品を感じる可能性がある。
また、話し手として1つの単語を文脈によって使い分けるのは楽だが、 聞き手からすると文脈から意味を読まないといけない。 これは聞き手の負担を増やすことになる。 話者が初めから明確な表現で伝えてくれれば、コミュニケーションの心理的な障壁も 少しは取り除かれるのではないか。
なんでもかんでも「ヤバい」で表現するのではなく、 その場にあった表現ができるように練習していこう。
2024/8/1 ぼーっとする時間も大切
いつも何かをしていると、必ず疲れる。 休まないと疲れるのだ。 頭も同じで、いつも何かを考えていると疲れる。 頭が休む暇がないからだ。
考え事をしているかどうかは、体を動かしているかどうかということと違って、 目に見えないのでわかりずらい。 外からはわからない。 頭が疲れていると感じた時は自分で意識して頭を使わないようにする必要がある。
つまりは、ぼーっとするのがいい。 何を考えるでもなく、ただ今のありのままだけに意識を向ける。 定期的にそうやって頭を休めておけば、いざという時にしっかり考えられる。 いいアイデアも浮かぶというものだ。
こういった、頭を休めるための手法は瞑想にも取り入れられていて、 マインドフルネスとかいわれるらしい。
2024/7/31 細切れの時間で勉強することについて
ここのところ、なんとなく忙しい感じがずっとあって、 落ち着いてものを考える時間が取れなかった。 仕事をしながら勉強を続けていくには細切れの時間でも 何とか拾い集めて、その時間でできることをやっていくのが 近道だと思っている。
しかし、込み入った計算や難しめの理論を勉強するときには まとまった時間があったほうがいい。 細切れの時間では試行も細切れになる。 短時間で考えられることは限られている。 少し考えてもう終わりという感じになってしまう。 次に考えた時には前やっていたことを忘れてしまっていて、 そのことを思い出すだけで時間が過ぎてしまう。 つまり、なかなか前に進まないのである。
3~4時間とか、まとまった時間を取って、一気にやり切ってしまうのがいい。 細かいところの補完はそれこそスキマ時間でやるのに向いている。 いきなり完全な理解をする必要はなくて、最終的に理解できればいい。 難しいことをやるときは、そういう心構えで勉強するのがいいと思っている。
ところで、忙しくて疲れていると、時間を捻出できたとしても やりたいことをやるだけの体力が残っていないことが多い。 つまり、仕事をしながらやりたいことをやるためには時間だけでなく 体力も同時に残しておかないといけないということに最近気づいた。 単純なことなのでもっと早く気付くべきだったが、今気づけたので良しとしよう。
問題はどうやって時間と体力の両方を捻出するのか、だがこれについて1つ答えが出ている。 朝に時間を作るようにすればいいのだ。 朝は起きてから時間がたっていないので、体力的には十分なはずだ。 朝に時間をつくるためには早起きすればいい。 睡眠で体力を回復しつつ、早起きをするには早く寝ればいい。 つまりは早寝早起きをして朝に学習時間と体力を確保できれば、 たいていの勉強はうまくいくはずだ。
なんだか、これも当たり前の結果になった。 結局のところ、昔からすべしといわれていることは 現代でも通用するのかもしれない。 早起きは三文の徳ということか。
2024/7/29 ブログとか
改めて自分が書いた記事を読んでいると、なんだかパッとしないものが多いなと思う。 まぁ、ここに書いてあるのは基本的に自分用の日記みたいなもので、 誰かの悩みを解決したりすることが目的ではないので 読んで心が動くような感じではないのは必然かもしれない。
いまどき、自分でブログを立ち上げて日記を書いているような人も少ないのではなかろうか。 それよりもXやインスタなどのSNSで手軽に発信できるようになっている。 あえてウェブサイトという形式をとる必要もないのが現状だと思う。
そんな中で細々とサイト運営していくのはなんとなく趣が深い。 ノスタルジーとまではいかないが、マイペースでやれる良さがある。 そもそもSNSはサイクルが早くてついていくのがしんどい。 元気なときならいいけれど、疲れていると次から次に流れてくる情報に圧倒される。 休憩時間などにスマホを手に取ってSNSをチェックすることが多いが、 休憩しているようでまったく休憩になっていない。 情報を処理するために頭を使っているので逆に疲れるのだ。
それに比べると、ブログという形式は流れる時間がゆっくりな感じがする。 自分のペースで更新すればいいし、コンテンツがまとまっているので 次から次へと関連性のない情報が流れてくることがない。
日記やブログというものは別に人の役に立つことではないが、人に迷惑もかけていない。 そんな感じの程よい距離感がいいなと思う。
2024/7/15 統計学を学び始めて
統計検定を受けようと計画しているので、ここ最近は統計学の勉強をしている。 これまで理論物理やら数学やらやってきたが、なんとなく統計学をしっかりやる機会がなかった。 確率論については統計力学とか量子力学で使うので少しはかじっていたが、 統計学が何を目的にしていて、どんな考え方なのかはまったく知らなかった。
初学者なりに入門書をいろいろ買って読んでみると、 どうも統計学というのはデータが得られたという前提のもとで、データの持つ性質を探ろうとする学問らしい。 今のところ、データの性質を調べる手法をまとめた知識体系、みたいなイメージを持っている。 また、一般的にそのデータがどうやって得られるのかという厳密なメカニズムは未知なので、 データは確率的に得られるものと仮定する。
これは理論物理とは逆の手法ではなかろうかと思った。 理論物理では、できるだけ少ない仮定から出発して、対象の物理系の性質を数学の力を借りて簡潔な理論で示そうとする。 その結果ができるだけ非自明であるほど価値があるし、少ない仮定から多くの結果を導けるほうがより良いとする考え方を持っている。 理論から計算される物理量の振る舞いを既存の理論や実験結果と比較するために数値シミュレーションをすることはあるが、 データが先にあるということは少ない印象がある。
実験物理学なら実験地のデータが先にあって、そこから物理を探るようなこともあるのだろうか。 実験についてはあまり詳しくないのでよくわからないが、そういうことがあってもよさそうな感じがする。
まず観測とか実験で得られたデータがあって、そこからものごとの性質や振る舞いを考えていこうという場面は 多いだろう。そういうこともあって、データを扱う他の分野との親和性が高い。 統計学を主張の裏付けに使うという感じだ。
学問が広まるというのは素晴らしいことだ。 一方で、専門家以外の人が統計学を使うと誤解や誤用が広まりやすいのが問題かと思う。 とくにビジネス寄りの人で統計学をうまく使える人というのは限られるような気がする。 みんながみんな論理的な思考が得意ではないし、数理的な教養があるわけでもないので。 とくにp値のあたりは結構混乱が多い印象だ。 医療系の論文などで誤用が多かったらしい。
統計学の強みはデータが手元にあるが、調査対象の背後の仕組みがわからないというときでも、 その対象の性質を調べられるということだ。 ただ、調査が進むと仕組みがわかってくることもあるかと思う。 仕組みは基礎理論として整理されるだろう。 そうなったら統計学よりもその基礎理論のほうが正しい主張ができるかもしれない。
未知の分野を切り開くときに統計学を使って、その分野の理論が発展してきたら 少し後ろに回る、みたいな感じなんだろうか。 統計学と他の学問の関係性も面白そうだ。