最近の話
2025/1/5 季節感を得るには
正月だが、クリスマス同様に部屋にこもって本を読んだり作業をしていると季節感というものがなくなってくる。 正月っぽいことをしようとして初詣には行ったが、帰ってくるとまたいつもの日常に戻ってしまう。 単発の季節イベントでは、この季節欠乏症には効果が薄いらしい。
いっそのこと、門松でも買ってきて家の前に置いてみたらいいかもしれない。 出来れば安く済ませたいので玄関における小さな奴でもいいかも、などと考え始めていたが、 そんなことをうだうだと考えているともう三が日は過ぎてしまっていた。 もう正月の飾りは片付け始める時期ではなかろうか。 相変わらず季節の移り変わりは早いものだなぁ、と嘆く正月になりそうだ。
ふとキーボードをたたく指がひりひりするなと思ったら、指にミミズ腫れのような傷があるのに気付く。 そういえば、朝ご飯に餅を焼こうとしてやけどをしたのだった。 オーブントースターで餅を焼いていたのだが、取り出すときに内部の暑い部分に指が触れてしまったようだった。 一瞬のことだったが、寝ぼけていた頭を覚ますには十分なほど熱かった。 なんともみっともない話だ。 などと考えていたが、実はこれはこれで正月っぽいのでないだろうか。
ちょっとググったところ餅の歴史は相当古いらしく、稲作が始まった縄文時代や弥生時代から食されているそうである(お餅の歴史)。また、餅を正月に飾る文化は平安時代からあったそうである(おもちと日本人)。 ということは、餅を焼いて食べようとしてやけどした人もたくさんいたに違いない。 とるに足らない事象も多くの人がくり返せば文化的に意味のあるものになるのが人間の歴史である。 そう考えると、このやけどは季節的に趣深いやけどといえるだろう。 しかも単発のイベントと違って長く季節感を供給してくれる。
ヒリヒリする指を冷水で冷やしながら、 今年はまあまあ正月っぽいなと戯言を考えるなどした。
2024/12/29 寒い時期は体調崩しがち
毎年のことだが、12月から2月にかけての寒い時期は体調崩しがちだ。 これは個人的なことだが、どうやら世間一般でも寒い時期は体調管理が難しい時期のようで 普段ははやらない風邪が流行ったりインフルエンザで仕事を休む人が出たりする。 寒いと体の免疫機能が下がりやすくなるのを何とかしたい。 さらに気温が下がると空気が乾燥して喉を傷めやすかったりするのもよくない。
何とか対策をしようとして暖房と加湿器を併用したりするわけだが、 そうすると電気代が高くなって別の不安が出てくる。 何かと物価高の現代であるが、例にもれずに電気代も高騰しているので 少し暖房を使っただけでも電気代の伸びが大きいのだ。
そんなことを考えながら過ごしていると、気疲れからか今年も体調を崩した。 結論から言ってシンプルに風邪を引いた。 世間がコロナだインフルだと騒いでいるよそで、普通の風邪をひいたのだった。 症状が比較的軽いので大事にならずに済んだのはよかったが、なんとも拍子抜けしたものだ。
しかし普通の風邪といっても普通なりにしんどい。 のどの違和感から始まって、のどの腫れと痛み、鼻水、咳、発熱(37度)が2、3日続いた。 こういう体調不良のときは早く治したいので寝て過ごすことが多いわけだが、単純にそれだけでなく、 何か他のことをしたくても何もできない。
よくある話で、 「体調不良で寝込んでいるときにすることがないから考え事をしていたら興味深いことに気づいた」 みたいなものがよくあるが、 本当にそんなことがあり得るのだろうかと思う。 体調を崩して寝込むたびに思う。 何もできないから体調不良なのであって、 考え事ができるならそれは結構元気であるのではないか。 見栄を張って、カッコをつけてはいないだろうか。
少し頑張って、布団の中で物理のことでも考えてみようとしてみる。 しかし、熱で頭が鈍っているせいか、うまく考えがまとまらない。 さらに続けていると、なんだか熱が上がってきそうな心地の悪さがあって、 後のことを考えると、これ以上続けるのはまずいような気分になってくる。 そうして、考えるのをやめ、寝てしまうのが体調不良のルーティンになっている。
回復してから振り返ってみると、やっぱり健康が一番だなぁ、とかありふれたことを思う。 体調不良の具合にもよるが、体調を崩しながら考え事をするよりも、 しっかり治してから机に向かうほうが自分には合っているのだろう。
2024/11/21 AI時代のモチベーション維持について
勉強を続けていくうえで、モチベーションを維持することは大切である。 それは日々痛感している。 計画を立てたときはやる気に満ち溢れていても、数か月たつと同じ情熱で机に向かうことは難しい。
最近はそれに加えて時代の流れもモチベーションの維持に影響しているのではないかと思うことがある。 数十年前よりも現代のほうがモチベーションを維持するのが困難なのではないだろうか。
現代は勉強以外の娯楽がたくさんある。 また、IT技術が発達し、世の中がどんどん便利になってきている。 世の中が便利で、個人が十分に満たされてしまえば、 現状よりも自己を向上させてより良い人生を手に入れようとか、 そのために勉強しようといった動機を得にくいのではなかろうか。 そんなふうに思うことがある。
とくに近年はAIの発展がめざましい。 毎日のように新しいAIサービスがリリースされている。 そしてそれらは何でもできるのではないかというほどに便利だ。
また、文章や絵を描くといったことまでAIの得意分野になりつつある。 あえて人間がそれらの行為をすることに特別の価値を見出していかないといけないのかもしれない。 たとえば、AIが書けない文章書くことが新しい価値になるといえるだろうか。
ただ、もしかするとそれは今までと変わらない面もあるかもしれない。 AIが書けない文章というのは、 構成が緻密であるとか、読み手にとって素晴らしい感動を与えられるとか、 何か新しい知見を提供してくれるといったことだと思う(それがどういう文章であるかにもよる)。
それはAIがなくても、もともと素晴らしい文章といえるはずだ。 現代では素晴らしい文章が書けない人でもAIを使ってそこそこの文章は書けるようになったといえる。 しかしそれはもともと文章が書けない多くの人でも書けるということなので、付加価値としては弱い。
AIが今よりもっと進んで人間の創作物よりも人間を感動させられるようにならない限り 状況はあまり変わっていないようにも見える。 つまり、できない人はできないし、できる人はできる。 その溝は狭まってはいない。
現状では、まだ人間が勉強する価値はありそうだ。 もしAIが人間の知的活動のすべてを上回ってしまったときは今のようにはいかないかもしれない。 そのときには人間のアイデンティティが問われるだろう。 個人的にはそんなことにならないほうが人生を楽しめそうな気がする。
2024/10/30 自分にとって休むとは何か
改めて、自分にとって休むとは何かを考えたい。 メンタル的に疲れたときに何が自分にとっての休息になるのだろうか。 そのためにはまず、「休む」という行動を定義しなければいけない。
「休む」という言葉の意味を調べると、仕事などを欠勤することや寝ることなどが出てくるが、 本質的には「仕事・活動を中断して、心身を楽にする。」というのがメインの意味になっていそうだ。 とくに心身を楽にする、というあたりがポイントのように思う。 疲れているから、心身を楽にしたいと考えて休もうという発想になるのだ。
「心身を楽にすること」を休むことのメインの意味に据えると、活動を中断することが必ずしも休むということではないと考えられる。 活動を中断するということは、突き詰めると寝ることや、ぼーっとすること、瞑想することなどに行き着きそうだが、 これらのことが休むということと同値ではないのだろう。
それではじぶんにとって「心身を楽にすること」は何だろうか。 「楽にすること」は、楽しいという感情を想起させたり、リラックスしていて苦しみがない状態にすることであると考えてみる。 自分にとって、「心身」について楽しいと感じたり、リラックスできる状況を思い浮かべればいい。
そうやって考えたときに思いつくのは、寝ること、音楽を聴くこと、本を読むことである。 とくに本を読むことは、今自分の頭の中にある考えと違う考えに出会うことだといえる。 悩んだり疲れたりしたときは経験的に、1つのことについて考えすぎたりすることが多い。 そんなときに別のテーマについての話に触れると、頭がリフレッシュされるので楽しいと感じたりする。
ただ、本を読むという行為は他の2つに比べると能動的な行動なので、あまりにつかれたときにはできないかもしれない。 したがって、疲れすぎているときは「寝る―>読書」という流れがいいだろう。 今度から疲れたときは少し寝てから本を読んで、回復するかどうか試してみよう。
2024/10/29 秋とか春は体調崩しがち
毎年思うことだが、秋とか春にはよく体調を崩す。 気温と気圧が不安定で、朝晩と昼間で体感温度の差が大きい。 体調管理が難しい時期だと思う。
そういう時期はメンタル的にもなんだか疲れたりする。 同じ事ばかり考えてしまったり、逆に何も考えられなくなって集中力が落ちてしまったりする。 まるで自分だけが調子悪いように感じてしまう。 そうすると余計に焦ったりしてよくない。
しかし周りを見ると、結構同じように調子悪そうな人は多い。 自分だけではないと思うと少し気が楽になったりならなったりする(何を言っているのか)。 いずれにせよ、体調が悪いのは自分の問題であって、だれかれと比べるものではないので焦る必要ない。 自分と向き合って、今の自分に何が足りていないのか何をすべきなのかを考えてみることのほうが建設的だ。 今は何も考えられないなら、考えられるようになるまで休めばいいのだ。
ということで、今日は思考力が低下しているみたいなので、あんまり無理せず休むことにした。 だが、何をすれば休むことになるのかよくわからない。 そもそも休むといいながら日記を書いてしまっている。 日記を書くことで頭が整理されて結果的に休まるならいいのだが。。。
自分にとって休むとは何かを考えたくなってくる。 しかし疲れているので考えまとまらない、という無限ループに入ってしまう。 現代人にとっては休むこともままならないらしい。
何をすれば休息になるのかがわからないという人もいるのかもしれない。 単純に寝れば休みになるのか。しかし寝すぎると逆に体調が悪くなる。 早寝早起きして定期的な運動習慣をもち、栄養バランスを考えた食事を三食とるのがいいのかもしれないが、 もう少し手っ取り早い方法があるとありがたい。 何しろこっちは疲れていて、すぐに休みたいからだ。
考えがまとまらないようだし、ここはひとまず寝て、 自分にとっての休息が何かという問題は改めて別日に考えることにしよう。
2024/10/14 時間が過ぎるのが早すぎる
『「時間が過ぎるのが早い」、「先週の日曜日に買い物に行ったのが昨日のことのようだ」、「あっという間に夜になっている」』、 どれも最近よく思うことだ。 子供のころに比べて、大人になってからは時間の流れが速くなったように感じる。 日々はいつの間にか過ぎていくし、さっき淹れたコーヒーはもう冷めている。
一様に同じ時間を生きてきたとは思えないほどに体感時間が違うように思う。 ときどき、これはなぜなのだろうかと考える。 子供と大人の生活で違うところを思い返してみる。 具体的には小学校のころと大人の生活で違いを考えてみる。
子供のころは新しい体験が毎日のようにあって、新鮮な気持ちで生活できたからかもしれない。 大人になるにつれ、通年のイベントは何度も繰り返して儀礼的になっていくし、 新しい体験というのも意識的に行動しないと得られなくなっていく。
または、子供の頃よりやらなければいけない作業が増えたからかもしれない。 たいていの大人は仕事をして生活をしていて、休みの日は疲れて寝ているか、たまった家事をやっている。 仕事は子供が通う学校と比べて拘束時間もタスクの量も多い。 経験的なことだが、人は何かに集中していると時間を忘れることがある。 日々、目の前のタスクに追われていると体感時間が短くなるのかもしれない。
別の視点でいえば、大人になるにつれて子供のころよりも代謝が落ちることが体感時間に関係するかもしれない。 大人になると、昔よりも傷の直りが遅くなったり、1晩寝ただけでは疲れが取れなかったりすることがよくある。 代謝が落ちて体が疲れやすくなると、てきぱき動けなくなってきて自分の活動が世の中と比べて相対的に遅くなってしまうのかもしれない。
メンタル的なところでいえば、大人のほうが未来を考えることよりも過去のことを振り返って考え事をすることが多くなるかもしれない。 子供のころは明日はどこに誰と遊びに行こうかと考えていたのが、 最近では昨日の仕事のことを考えている時間が増えたように感じる。 過去にとらわれるほど今を大事に考えられなくなる気もする。 個人の感覚的なところなのでソースはないが、なんとなくそんな風に思う。
ここで挙げたことが正しいと仮定すると、 体感時間を長くするにはそれぞれの原因に対して適切な対策を打てばいいはずだ。 つまり、できるだけ毎日の中で新しい発見や体験をして、タスクから解放されてのんびりする時間も大切にしつつ、 代謝を上げるために運動を継続して行う。さらに未来の予定や現在の生活を大事にして生きる。 改めて言葉にしてみると、なかなか健康的な生活だ。
もしこれらを実践できたら、流れていく時間も少しは取り戻せるかもしれない。
2024/9/16 漠然とした問題は具体的な問題に落とし込んでから取り組む
世の中にある問題の多くは物理や数学の問題ほど具体的でないことが多い。 逆に問題が具体的であれば、その解決策も考えやすいので、できるだけ取り組む問題を具体的にしていきたいものである。 そもそも問題として認識されていないこともある。 そういう隠れた問題は、現状では認識すらされていないのであって、例を挙げるのは難しいが、 最近起こりつつある問題を無理やり考えてみる。 たとえば、SNSが普及したことで大勢の人が不特定多数の人に対して情報発信を行えるようになったことで、 流れてくる情報の確かさや質みたいなものが低下している問題を考えてみる。
別に自分が行っている情報発信も質が高いかと言われればそうでもないので、この問題に拍車をかけてしまっているかもしれない。 ところで、こういう問題は最初はもっと漠然とした感覚から発生するものであって、 上にあげた表現であってもすでに具体化されているように思う。 最初の感覚としては、インターネット検索で閲覧できる記事やSNS上で議論されている内容をみたときに、 嘘が多かったり不確かな憶測にもとづいた話になっていたりして、期待する結果を得られなかったときの不満感ではないだろうか。
そこから1つ仮説を立てて、SNSやWeb記事をだれでも投稿できる環境になったから投稿数が増え、相対的に記事の質が低下した、と考えたとする。 その仮説が本当かどうかをSNS普及前後の記事投稿数と記事内容の質についてデータ収集と分析を行う必要がある(しかもその記事の質が高いのかどうかを評価するための評価指標も事前に考える必要がある)。 そういった検証を行った結果、SNSの普及が記事の質に影響していれば、先の問題を問題として提起することができる。 そういう具体化のための作業が行われているべきである。 残念ながらこの話は思い付きで書いているので、そこまでの検証がされているかどうかは確認できておらず、 先ほどの書き方では仮説と提起したい問題が混ざってしまっている。
きちんと問題を提起するには何が問題で何が仮説なのかを分けておくべきである。 この話でいえば、問題にするべきことはネット記事の質の低下の原因が不明であることであるだろう。 実際に調査をする人は単なる興味で調べることもあるが、何か仕事と関係しているかもしれない。 たとえば、この問題を考えているのはWebライターで生計を立てている人で、 自分が書いている記事を周りの記事と差別化するためにどうすればいいかを考えているのかもしれない。 そのために、最近のネット記事の質低下が起きているのは本当なのか、起きているとすれば、 自分が記事を書くときにどこまでの質を担保すれば差別化できるのかを調べたいと思ったとする。
そういう動機で最初の問題を考えているとすると、問題の背景が少しクリアになってくる。 自分の書いている記事と他の記事の質を比べるための評価指標の導入がキモになるかもしれない。 どんな人間が何のためにどんな問題を解決したいのかがわかれば、解決策を具体的に考えやすい。
ここまでいろいろ想像しながら書いてきて思ったが、問題を具体化するということは、 問題が含んでいる要素を細分化して本当に明らかにすべき部分を特定することと、その問題の周辺知識を明らかにすることだと考えられる。 本当に明らかにすべき部分を特定することは、見通しをよくして効率よく問題を解決することにつながる。 また、問題の周辺知識を調べることは、問題の解決策を考えるときの引き出しの多さに影響する。
実際に世の中にある問題はもっと複雑だが、 だからこそ本質的な部分を明らかにして、できるだけシンプルに考える癖をつけるのがいいはずだ。